李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1−2−22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1−2−22]を段※[#二の字点、1−2−22]と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒織《かんしき》にも長け、勿論学問も有つた人だつたから、家には非常に多くの優秀な骨董を有して居た。然し孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器《えうき》は皆其の光輝を失つたほどであつた。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定まつてしまつた。実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見した者と一見もせぬ者とに論無く、衆口|嘖※[#二の字点、1−2−22]《さく/\》として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであつた。
こゝに呉門の周丹泉《しうたんせん》といふ人があつた。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先づ天才的の眼も手も有して居た人であつたが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしやう》から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請ひ、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物で無いことを知つて交つてゐた唐氏は喜んで引見して、そして其需に応じた。丹泉はしきりに称讃して其鼎をためつすがめつ熟視し、手をもつて大さを度《はか》つたり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、斯様い
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