み》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留つて視ると、如何にも時代といひ、出来といひ、中※[#二の字点、1−2−22]めつたには無い好いものだが、残念なことには一方しか無かつた。揃つて居れば、勿論こんな店にあるべきものでは無い筈だが、それにしても何程《いくら》といふだらうと、価を聞くと、ほんの端金だつた。アヽ、一対なら、おれの腕で売れば慥に三十両にはなるものだが、片方では仕方が無い、少しの金にせよ売物にならぬものを買つたつて何様もならぬと、何とも云へない其鐙の好い味に心は惹かれながら、振返つては見つゝも思ひ捨てゝ買はずに大阪へと下つた。いくら好い物でも商売にならぬものを買はなかつたところは流石に宜かつた。ところが、それから道の程を経て、京橋辺の道具屋に行くと、偶然と云はうか天の引合せと云はうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あつた。ン、これが別れ/\て両方後家になつてゐたのだナ、しめた、これを買つて、深草のを買つて、両方合はせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問ふと片方の割合には高いことを云つて、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、中※[#二の字点、1−2−22]廉くない。仕方が無いから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方の云ひ値で買つて、吾が家へ帰ると直に此話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであつた。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たはけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買ひ居つたナ」と罵られた。金八も馬鹿ぢや無かつた。ハッと気が付いて、「しまつた。向後《きやうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」といふ渾名を付けられたといふことである。これは、もとより片方しか無かつた鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまはり道をして同じ其鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さへ急かねば謀られる訳は無いが、他人に仕て遣られぬ前にといふのと、なまじ前に熟視して居て、テッキリ同じ物だと思つた心の虚といふものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食はせられたのである。親父は流石に老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事が有るものでは無いといふところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかつたナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破つたところは
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