の囃し言葉に連接してゐるので、骨董といふことが銅器などを云ふことに転じて来たことになるのである。又それから種※[#二の字点、1−2−22]の古物をも云ふことになつたのである。骨董は古銅の音転などといふ解は、本を知らずして末に就いて巧解したもので、少し手取り早過ぎた似而非《えせ》解釈といふ訳になる。
 又、蘇東坡が種※[#二の字点、1−2−22]の食物を雑へ烹《に》て、これを骨董羮と曰《い》つた。其の骨董は零雑の義で、恰も我邦俗のゴッタ煮ゴッタ汁などといふゴッタの意味に当る。それも字面には別に義があるのでは無い。又、水に落つる声を骨董といふ。それもコトンと落ちる響を骨董の字音を仮りて現はしたまでで、字面に何の義も有るのでは無い。畢竟骨董はいづれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字では無く、言語の音からの文字であつて、文字は仮りものであるから、それに訓詁的のむづかしい理屈は無い。
 そんな事は何様でも可いが、兎に角に骨董といふことは、貴いものは周鼎漢彝玉器《しうていかんいぎよくき》の類から、下つては竹木雑器に至るまでの間、書画法帖、琴剣鏡硯、陶磁の類、何でも彼でも古い物一切を云ふことになつてゐる。そして世におのづから骨董の好きな人が有るので、骨董を売買する所謂骨董屋を生じ、骨董の目きゝをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在して居るやうになつてゐる。実におもしろい事で、又盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口を云へば骨董は死人の手垢の附いた物といふことで、余り心持の好いわけの物でも無く、大博物館だつて盗賊《どろばう》の手柄くらべを見るやうなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談《はなし》で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行はれるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝が吾曹の頭上にかゞやき、香気が我等の胸に逼つて、そして今人をして古文明を味はゝしめ、それから又古人とは異なつた文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きてゐる人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。云はゞ骨董が好きになつて、やつと人間並になつたので、豚だの牛だ
前へ 次へ
全22ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング