道好きだつた人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽んで死んでしまつた。一時間が何千円に当つた訳だ、なぞと譏《そし》る者が有るが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能の無い、理屈をぬけた楽しい天地の有ることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だつて煙草の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思へぬことを会得しないからだ。
 骨董は何様考へてもいろ/\の意味で悪いものでは無い。特《こと》に年寄になつたり金持になつたりしたものには、骨董でも捻くつて貰つてゐるのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用ゐて貰つて、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落だ。老人には老人相応のオモチャを当がつて、落ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷になる。小供はセルロイドの玩器《おもちや》を持つ、年寄は楽焼の玩器を持つ、と小学読本に書いて置いても差支無い位だ。又金持は兎角に金が余つて気の毒な運命に囚へられてるものだから、六朝仏《りくてうぶつ》印度仏ぐらゐでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己《だつき》の金盥に狐の毛が三本着いてゐるのだの、伊尹《いゐん》の使つた料理鍋、禹《う》の穿いたカナカンジキだのといふやうなものを素敵に高く買はすべきで、此《これ》は是れ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのといふむづかしい神※[#二の字点、1−2−22]の神慮をすゞしめ奉る御神楽の一座にも相成る訳だ。
 が、それはそれで可いとして、年寄でも無く、二才でも無く、金持でも無く、文無しでも無い、所謂中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。斯様いふ連中は全く盲人《めくら》といふでも無く、さればと云つて高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気も無いので、得て中有に迷つた亡者のやうになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数は此の連中で、仕方が無いから此の連中の内で聡明でも有り善良でも有る輩《やから》は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたく無い事は無いが、それは雲に梯《かけはし》の及ばぬ恋路みたやうなものだから、矢張り自分等の身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲を成るべく狭小にし、そして歳月を其中で楽しむ。所謂一[#(ト)]筋を通し、一
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