《せま》って、そして今人《こんじん》をして古文明を味わわしめ、それからまた古人とは異なった文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きている人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若《もし》くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。いわば骨董が好きになって、やっと人間|並《なみ》になったので、豚だの牛だのは骨董を捻《ひね》くった例を見せていない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それからまた骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によっては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込《つっこ》み手を突込むようになる。イヤでも黴臭《かびくさ》いものを捻くらなければ、いつも定《き》まりきった書物の中をウロツイている訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、その他いろいろの分科の学者たちも、ありふれた事は一[#(ト)]通り知り尽して終《しま》った段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入って行く。それも道理千万な談《はなし》で、早い譬《たとえ》が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立《なりた》とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合《いみあい》もあって、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのはむしろ誇るべし、骨董を捻くる度《ど》にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍《あわれ》むべきものであるといってもよいのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町《こまち》の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃《さん》が金《きん》で書いてある顔回《がんかい》の瓢《ひさご》、耶蘇《やそ》の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身《そりみ》になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。
骨董いじりは実にオツである、イキである、おもしろいに違いない、高尚に違いない、そして有意義に違いない、そして場合によっては個人のため社会のためになる事もあるに違いない。自分なぞも資産家でさえあればきっとすばらしい贋物《がんぶつ》や贋筆を買込《かいこん》で大ニコニコであるに疑いない。骨董を買う以上は贋物を買うまいなんぞというそんなケチな事でどうなるものか、古人も死馬《しば》の骨を千金で買うとさえいってあるではな
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