美味《うま》うは受けとらぬに、平常《つね》は六碗七碗を快う喫《く》ひしも僅に一碗二碗で終へ、茶ばかり却つて多く飲むも、心に不悦《まづさ》の有る人の免れ難き慣例《ならひ》なり。
 主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なき頑要《やんちや》ざかりの猪之まで自然《おのづ》と浮き立たず、淋しき貧家のいとゞ淋しく、希望《のぞみ》も無ければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖味のない夢に物寂た夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寐たる床より密《そつ》と出るも、朝風の寒いに火の無い中から起すまじ、も少し睡《ね》させて置かうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何も彼も知らいでたわい無く寐て居し平生《いつも》とは違ひ、如何せしことやら忽ち飛び起き、襦袢一つで夜具の上跳ね廻り跳ね廻り、厭ぢやい厭ぢやい、父様を打つちや厭ぢやい、と蕨《わらび》のやうな手を眼にあてゝ何かは知らず泣き出せば、ゑゝこれ猪之は何したものぞ、と吃驚しながら抱き止むるに抱かれながらも猶泣き止まず。誰も父様を打ちは仕ませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寐て居らるゝ、と顔を押向け知らすれば不思議さうに覗
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