なくもてなすことはもてなすものゝ言葉も無し。平時《つね》に変れる状態《ありさま》を大方それと推察《すゐ》して扨慰むる便《すべ》もなく、問ふてよきやら問はぬが可きやら心にかゝる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつゝ、其一本は杉箸で辛くも用を足す火箸に挟んで添へる消炭の、あはれ甲斐なき火力《ちから》を頼り土瓶の茶をば温《ぬく》むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰つて来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見て呉れ、と然《さ》も勇ましく障子を明けて褒められたさが一杯に罪無く莞爾《にこり》と笑ひながら、指さし示す塔の模形《まねかた》。母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衞涙に浮くばかりの円《つぶら》の眼を剥き出し、※[#「目+閏」、第4水準2−82−17]《まじろ》ぎもせでぐいと睨めしが、おゝ出来《でか》した出来した、好く出来た、褒美を与らう、ハッハヽヽと咽び笑ひの声高く屋の棟にまで響かせしが、其まゝ頭を天に対はし、嗚呼、弟とは辛いなあ。

       其十一

 格子開くる響爽かなること常の如く、お吉、今帰つた、と元気よげに上り来る夫の声を聞くより、心配を輪に吹き/\吸て居し煙草管《きせる》を邪見至極に抛り出して忙はしく立迎へ、大層遅かつたではないか、と云ひつゝ背面《うしろ》へ廻つて羽織を脱せ、立ながら腮《あご》に手伝はせての袖畳み小早く室隅《すみ》の方に其儘さし置き、火鉢の傍へ直また戻つて火急《たちまち》鉄瓶に松虫の音を発《おこ》させ、むづと大胡坐かき込み居る男の顔を一寸見しなに、日は暖かでも風が冷く途中は随分|寒《ひえ》ましたろ、一瓶《ひとつ》煖酒《つけ》ましよか、と痒いところへ能く届かす手は口をきく其|間《ひま》に、がたぴしさせず膳ごしらへ、三輪漬は柚《ゆ》の香ゆかしく、大根卸《おろし》で食はする※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]卵《はらゝご》は無造作にして気が利たり。
 源太胸には苦慮《おもひ》あれども幾干《いくら》か此に慰められて、猪口把りさまに二三杯、後一杯を漫《ゆる》く飲んで、汝《きさま》も飲《や》れと与ふれば、お吉一口、つけて、置き、焼きかけの海苔畳み折つて、追付|三子《さんこ》の来さうなもの、と魚屋の名を独語しつ、猪口を返して酌せし後、上※[#二の字点、1−2−22]吉と腹に思へば動かす舌も滑かに、それはさうと今日の首尾は、大丈夫此方のものとは極めて居ても、知らせて下さらぬ中は無益《むだ》な苦労を妾は為ます、お上人様は何と仰せか、またのつそり奴は如何なつたか、左様真面目顔でむつつりとして居られては心配で心配でなりませぬ、と云はれて源太は高笑ひ。案じて貰ふ事は無い、御慈悲の深い上人様は何《ど》の道|我《おれ》を好漢《いゝをとこ》にして下さるのよ、ハヽヽ、なあお吉、弟を可愛がれば好い兄《あにき》ではないか、腹の饑《へ》つたものには自分が少しは辛くても飯を分けてやらねばならぬ場合もある、他《ひと》の怖いことは一厘無いが強いばかりが男児《をとこ》では無いなあ、ハヽヽ、じつと堪忍《がまん》して無理に弱くなるのも男児だ、嗚呼立派な男児だ、五重塔は名誉の工事《しごと》、たゞ我一人で物の見事に千年壊れぬ名物を万人の眼に残したいが、他の手も智慧も寸分|交《ま》ぜず川越の源太が手腕だけで遺したいが、嗚呼癇癪を堪忍するのが、ゑゝ、男児だ、男児だ、成程好い男児だ、上人様に虚言は無い、折角望みをかけた工事を半分他に呉るのはつく/″\忌※[#二の字点、1−2−22]しけれど、嗚呼、辛いが、ゑゝ兄《あにき》だ、ハヽヽ、お吉、我はのつそりに半口与つて二人で塔を建てやうとおもふは、立派な弱い男児か、賞めて呉れ賞めて呉れ、汝《きさま》にでも賞めて貰はなくては余り張合ひの無い話しだ、ハヽヽと嬉しさうな顔もせで意味の無い声ばかりはづませて笑へば、お吉は夫の気を量りかね、上人様が何と仰やつたか知らぬが妾にはさつぱり分らず些《ちつと》も面白くない話し、唐偏朴の彼《あの》のつそりめに半口与るとは何いふ訳、日頃の気性にも似合はない、与るものならば未練気なしに悉皆《すつかり》与つて仕舞ふが好いし、固より此方で取る筈なれば要りもせぬ助太刀頼んで、一人の首を二人で切る様な卑劣《けち》なことをするにも当らないではありませぬか、冷水で洗つたやうな清潔《きれい》な腹を有つて居ると他にも云はれ自分でも常※[#二の字点、1−2−22]云ふて居た汝《おまへ》が、今日に限つて何といふ煮切ない分別、女の妾から見ても意地の足らない愚図※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]思案、賞めませぬ賞めませぬ、何《どう》して中※[#二の字点、1−2−22]賞められませぬ、高が相手は此方《こち》の恩を受けて居るのつそり奴、一体な
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