かれて行きそうになりましたから、客は竿尻を取ってちょいと当てて、直《すぐ》に竿を立てにかかりました。が、こっちの働きは少しも向うへは通じませんで、向うの力ばかりが没義道《もぎどう》に強うございました。竿は二本継《にほんつぎ》の、普通の上物《じょうもの》でしたが、継手《つぎて》の元際《もとぎわ》がミチリと小さな音がして、そして糸は敢《あ》えなく断《き》れてしまいました。魚が来てカカリへ啣《くわ》え込んだのか、大芥《おおごみ》が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処《ここ》で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽《あく》までも練れた客で、「後追《あとお》い小言《こごと》」などは何も言わずに吉の方を向いて、
「帰れっていうことだよ」と笑いましたのは、一切の事を「もう帰れ」という自然の命令の意味合《いみあい》だと軽く流して終《しま》ったのです。「ヘイ」というよりほかはない、吉は素直にカシを抜いて、漕《こ》ぎ出しながら、
「あっしの樗蒲《ちょぼ》一《いち》がコケだったんです」と自語《しご》的《てき》に言って、チョイと片手で自分の頭《かしら》を打つ真似《まね》をして笑った。「ハハハ」「ハハハ」と軽い笑《わらい》で、双方とも役者が悪くないから味な幕切《まくぎれ》を見せたのでした。
海には遊船《ゆうせん》はもとより、何の舟も見渡す限り見えないようになっていました。吉はぐいぐいと漕いで行く。余り晩《おそ》くまでやっていたから、まずい潮《しお》になって来た。それを江戸の方に向って漕いで行く。そうして段々やって来ると、陸はもう暗くなって江戸の方|遥《はるか》にチラチラと燈《ひ》が見えるようになりました。吉は老いても巧いもんで、頻《しき》りと身体《からだ》に調子をのせて漕ぎます。苫《とま》は既に取除《とりの》けてあるし、舟はずんずんと出る。客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面《うみづら》を見ていると、もう海の小波《さざなみ》のちらつきも段々と見えなくなって、雨《あま》ずった空が初《はじめ》は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨《うすずみ》になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込《とけこ》むようになって、反
前へ
次へ
全21ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング