るところをたった二合ずつ買いに遣《よこ》されて、そして気むずかしい日にあ、こんなに量りが悪いはずはねえ、大方《おおかた》途中《とちゅう》で飲んだろう、道理で顔が赤いようだなんて無理を云って打撲《ぶんなぐ》るんだもの、ほんとに口措《くやし》くってなりやしない。」
「ほんとに嫌《いや》な人だっちゃない。あら、お前の頸《くび》のところに細長い痣《あざ》がついているよ。いつ打《ぶ》たれたのだい、痛そうだねえ。」
と云いながら傍《そば》へ寄って、源三の衣領《えり》を寛《くつろ》げて奇麗《きれい》な指で触ってみると、源三はくすぐったいと云ったように頸を縮《すく》めて障《さえぎ》りながら、
「お止《よし》よ。今じゃあ痛くもなんともないが、打たれた時にあ痛かったよ。だって布袋竹《ほていちく》の釣竿《つりざお》のよく撓《しな》う奴《やつ》でもってピューッと一ツやられたのだもの。一昨々日《さきおととい》のことだったがね、生《なま》の魚が食べたいから釣って来いと命令《いいつ》けられたのだよ。風が吹《ふ》いて騒《ざわ》ついた厭な日だったもの、釣れないだろうとは思ったがね、愚図愚図《ぐずぐず》していると叱《しか》られるから、ハイと云って釣には出たけれども、どうしたって日が悪いのだもの、釣れやしないのさ。夕方まで骨を折って、足の裏が痛くなるほど川ん中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたけれども、とうとう一尾《いっぴき》も釣れずに家へ帰ると、サア怒《おこ》られた怒られた、こん畜生《ちくしょう》こん畜生と百ばかりも怒鳴《どな》られて、香魚《あゆ》や山※[#「魚へん+完」、第4水準2−93−48、58−7]《やまめ》は釣れないにしても雑魚《ざこ》位釣れない奴があるものか、大方遊んでばかりいやがったのだろう、この食《く》い潰《つぶ》し野郎《やろう》めッてえんでもって、釣竿を引奪《ひったく》られて、逃《に》げるところを斜《はす》に打《ぶ》たれたんだ。切られたかと思ったほど痛かったが、それでも夢中《むちゅう》になって逃げ出すとネ、ちょうど叔父《おじ》さんが帰って来たので、それで済《す》んでしまったよ。そうすると後で叔父さんに対《むか》って、源三はほんとに可愛《かわい》い児ですよ、わたしが血の道で口が不味《まず》くってお飯《まんま》が食べられないって云いましたらネ、何か魚でも釣って来てお菜《さい》にしてあげましょうって今まで掛《かか》って釣をしていましたよ、運が悪くって一尾《いっぴき》も釣れなかったけれども、とさもさも自分がおいらによく思われていでもするように云うのだもの、憎くって憎くってなりあしなかった。それもいいけれど、何ぞというと食い潰しって云われるなあ腹が立つよ。過日《こないだ》長六爺《ちょうろくじじい》に聞いたら、おいらの山を何町歩《なんちょうぶ》とか叔父さんが預《あず》かって持っているはずだっていうんだもの、それじゃあおいらは食潰しの事は有りあしないじゃあないか。家の用だって随分《ずいぶん》たんとしているのに、口穢《くちぎたな》く云われるのが真実《ほんと》に厭だよ。おまえの母《おっか》さんはおいらが甲府へ逃げてしまって奉公sほうこう》しようというのを止めてくれたけれども、真実《ほんと》に余所《よそ》へ出て奉公した方がいくらいいか知れやしない。ああ家に居たくない、居たくない。」
と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明《ふとうめい》な白みを持っている柔和《やわらか》な青い色の天《そら》を、じーっと眺《なが》め詰《つ》めた。お浪もこの夙《はや》く父母《ちちはは》を失った不幸の児が酷《むご》い叔母《おば》に窘《くるし》められる談《はなし》を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙《なみだ》ぐんで茫然《ぼうぜん》として、何も無い地《つち》の上に眼を注いで身動もしないでいた。陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅《すみ》の柘榴《ざくろ》の樹《き》の周《まわ》りに大きな熊蜂《くまばち》がぶーんと羽音《はおと》をさせているのが耳に立った。

   その三

 色々な考えに小《ちいさ》な心を今さら新《あらた》に紛《もつ》れさせながら、眼ばかりは見るものの当《あて》も無い天《そら》をじっと見ていた源三は、ふっと何《なん》の禽《とり》だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対《むか》ってでは無い語気で、
「禽は好《い》いなア。」
と呻《うめ》き出した。
「エッ。」
と言いながら眼を挙《あ》げて源三が眼の行く方《かた》を見て、同じく禽の飛ぶのを見たお浪は、たちまちにその意《こころ》を悟《さと》って、耐《た》えられなくなったか※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62、60−10]然《げんぜん》として涙を堕《おと》した。そして源三が肩先《かたさき》を把《とら》えて、
「またおまえは甲府へ行ってしまおうと思っているね。」
とさも恨《うら》めしそうに、しかも少しそうはさせませぬという圧制《あっせい》の意の籠《こも》ったような語《ことば》の調子で言った。
 源三はいささかたじろいだ気味で、
「なあに、無暗《むやみ》に駈《か》け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様《おっかさん》の談《はなし》でよく解《わか》っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余《あんま》り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜《くやし》いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛《つら》い思いをしても辛棒《しんぼう》をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆《みんな》が云うけれど、おいらだって男の児だもの、窘《いじ》められてばかりいたかあ無いや。」
と他《ひと》の意《こころ》に逆《さか》らわぬような優しい語気ではあるが、微塵《みじん》も偽《いつわ》り気《げ》は無い調子で、しみじみと心の中《うち》を語った。
 そこで互《たがい》に親み合ってはいても互に意《こころ》の方向《むき》の異《ちが》っている二人の間に、たちまち一条の問答が始まった。
「どこへでも出て辛棒をするって、それじゃあやっぱり甲府へ出ようって云うんじゃあないか。」
とお浪は云い切って、しばし黙《だま》って源三の顔を見ていたが、源三が何とも答えないのを見て、
「そーれご覧《らん》、やっぱりそうしようと思っておいでのだろう。それあおまえも、品質《もの》が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々《たびたび》に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣《よこ》すような酷《ひど》い叔母様《おばさん》に使われて、そうして釣竿で打《ぶ》たれるなんて目に逢うのだから、辛《つら》いことも辛いだろうし口惜《くや》しいことも口惜しいだろうが、先日《せん》のように逃げ出そうと思ったりなんぞはしちゃあ厭だよ。ほんとに先日《いつか》の夜《ばん》だって吃驚《びっくり》したよ。いくら叔母さんが苛《ひど》いったって雪の降ってる中を無暗に逃げ出して来て、わたしの家《とこ》へも知らさないで、甲府へ出てしまって奉公しようと思うとって、夜にもなっているのにそっと此村《ここ》を通り抜けてしまおうとしたじゃあないか。吾家《うち》の母《おっか》さんが与惣次《よそうじ》さんところへ招《よ》ばれて行った帰路《かえり》のところへちょうどおまえが衝突《ぶつか》ったので、すぐに見つけられて止められたのだが、後で母様《おっかさん》のお話にあ、いくら下りだって甲府までは十里近くもある路を、夜にかかって食物の準備《ようい》も無いのに、足ごしらえも無しで雪の中を行こうとは怜悧《りこう》のようでも真実《ほんと》に児童《こども》だ、わたしが行き合って止めでもしなかったらどんな事になったか知れやしない、思い出しても怖《おそろ》しい事だと仰《おっし》ゃったよ。そればかりじゃあ無い、奉公をしようと云ったって請人《うけにん》というものが無けりゃあ堅《かた》い良い家《うち》じゃあ置いてくれやしないし、他人ばかりの中へ出りゃあ、この児はこういう訳のものだから愍然《かわいそう》だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷《よそ》へ出て苦労をするにしても、それそれの道順を踏《ふ》まなければ、ただあっちこっちでこづき廻《まわ》されて無駄《むだ》に苦しい思《おもい》をするばかり、そのうちにあ碌《ろく》で無い智慧《ちえ》の方が付きがちのものだから、まあまあ無暗に広い世間へ出たって好いことは無い、源さんも辛いだろうがもう少し辛棒していてくれれば、そのうちにあどうかしてあげるつもりだと吾家《うち》の母《おっか》さんがお話しだった事は、あの時の後にもわたしが話したからおまえだって知りきっているはずじゃあ無いかエ。それだのにまだおまえは隙《すき》さえありゃ?無鉄砲《むてっぽう》なことをしようとお思いのかエ。」
と年齢《とし》は同じほどでも女だけにませたことを云ったが、その言葉の端々《はしはし》にもこの女《こ》の怜悧《りこう》で、そしてこの児を育てている母の、分別の賢《かしこ》い女であるということも現れた。
 源三は首を垂《た》れて聞いていたが、
「あの時は夢中になってしまったのだもの、そしてあの時おまえの母様《おっかさん》にいろんな事を云って聞かされたから、それからは無暗の事なんかしようとは思ってやしないのだヨ。だけれどもネ、」
と云いさして云い澱《よど》んでしまった。
「だけれどもどうしたんだエ。ああやっぱり吾家《うち》の母様《おっかさん》の云うことなんか聴《き》かないつもりなのだネ。」
「なあに、なあにそうじゃないけれども、……」
「それ、お見、そうじゃあないけれどもってお云いでも、後の語《ことば》は出ないじゃあないか。」
「…………」
「ほら、ほら、閊《つか》えてしまって云えないじゃあないか。おまえはわたし達にあ秘《かく》していても腹《おなか》ん中じゃあ、いつか一度は、誰の世話にもならないで一人で立派なものになろうと思っているのだネ。イイエ頭を掉《ふ》ってもそうなんだよ。」
「ほんとにそうじゃないって云うのに。」
「イイエ、何と云ってもいけないよ。わたしはチャーンと知っているよ。それじゃあおまえあんまりというものだよ、何もわたし達あおまえの叔母《おば》さんに告口《いつけぐち》でもしやしまいし、そんなに秘《かく》し立《だて》をしなくってもいいじゃあないか。先《せん》の内はこんなおまえじゃあなかったけれどだんだんに酷い人におなりだネエ、黙々《だんまり》で自分の思い通りを押通《おしとお》そうとお思いのだもの、ほんとにおまえは人が悪い、怖《こわ》いような人におなりだよ。でもおあいにくさまだが吾家《うち》の母様《おっかさん》はおまえの心持を見通していらしって、いろいろな人にそう云っておおきになってあるから、いくらお前が甲府の方へ出ようと思ったりなんぞしてもそうはいきません。おまえの居る方から甲府の方へは笛吹川の両岸のほかには路は無い、その路にはおまえに無暗なことをさせないようにと思って見ている人が一人や二人じゃあ無いから、おまえの思うようにあなりあしないヨ。これほどに吾家《うち》の母様《おっかさん》の為《な》さるのも、おまえのためにいいようにと思っていらっしゃるからだとお話があったわ。それだのに禽《とり》を見て独語《ひとりごと》を云ったりなんぞして、あんまりだよ。」
と捲《まく》し立ててなおお浪の言わんとするを抑《おさ》えつけて、
「いいよ、そんなに云わなくったって分っているよ。おいらあ無暗に逃げ出したりなんぞしようと思ってやしないというのに。」
と遮《さえぎ》る。
「おや、まだ強情《ごうじょう》に虚言《うそ》をお吐《つ》きだよ。それほど分っているならなぜ禽はいいなあと云ったり、だけれどもネと云って後の言葉を云えなかったりするのだエ。」
と追窮《ついきゅう》する。追窮されても窘《くるし》まぬ源三は、
「そりゃあただおいらあ、自由自在になっていたら嬉《うれ》しいだろうと
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング