0−10]然《げんぜん》として涙を堕《おと》した。そして源三が肩先《かたさき》を把《とら》えて、
「またおまえは甲府へ行ってしまおうと思っているね。」
とさも恨《うら》めしそうに、しかも少しそうはさせませぬという圧制《あっせい》の意の籠《こも》ったような語《ことば》の調子で言った。
源三はいささかたじろいだ気味で、
「なあに、無暗《むやみ》に駈《か》け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様《おっかさん》の談《はなし》でよく解《わか》っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余《あんま》り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜《くやし》いから、叔父さんにあ済まないけれどどこへでも出て、どんな辛《つら》い思いをしても辛棒《しんぼう》をして、すこしでもいいから出世したいや。弱虫だ弱虫だって衆《みんな》が云うけれど、おいらだって男の児だもの、窘《いじ》められてばかりいたかあ無いや。」
と他《ひと》の意《こころ》に逆《さか》らわぬような優しい語気ではあるが、微塵《みじん》も偽《いつわ》り気《げ》は無い調子で、しみじみと心の中《うち》を語った。
そこで互《たがい》に親み合ってはいても互に意《こころ》の方向《むき》の異《ちが》っている二人の間に、たちまち一条の問答が始まった。
「どこへでも出て辛棒をするって、それじゃあやっぱり甲府へ出ようって云うんじゃあないか。」
とお浪は云い切って、しばし黙《だま》って源三の顔を見ていたが、源三が何とも答えないのを見て、
「そーれご覧《らん》、やっぱりそうしようと思っておいでのだろう。それあおまえも、品質《もの》が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々《たびたび》に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣《よこ》すような酷《ひど》い叔母様《おばさん》に使われて、そうして釣竿で打《ぶ》たれるなんて目に逢うのだから、辛《つら》いことも辛いだろうし口惜《くや》しいことも口惜しいだろうが、先日《せん》のように逃げ出そうと思ったりなんぞはしちゃあ厭だよ。ほんとに先日《いつか》の夜《ばん》だって吃驚《びっくり》したよ。いくら叔母さんが苛《ひど》いったって雪の降ってる中を無暗に逃げ出して来て、わたしの家《とこ》へも知らさないで、甲府へ出てしまって奉公しようと思うとって、夜にもなっているのにそっと此村《ここ》を通り抜けてしまお
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