する心を抱きながら、毛繻子《けじゆす》の大洋傘《おほかうもり》に色の褪せた制服、丈夫一点張りのボックスの靴といふ扮装《いでたち》で、五里七里歩く日もあれば、又汽車で十里二十里歩く日もある、取止めの無い漫遊の旅を続けた。
 憫む可し晩成先生、|嚢中自有[#レ]銭《なうちゆうおのづからせんあり》といふ身分では無いから、随分切詰めた懐《ふところ》でもつて物価の高くない地方、贅沢気味の無い宿屋※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]を渡りあるいて、又機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置無い山寺なぞをも手頼つて、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州の或|辺僻《へんぺき》の山中へ入つて仕舞つた。先生極真面目な男なので、俳句なぞは薄生意気な不良老年の玩物《おもちや》だと思つて居り、小説|稗史《はいし》などを読むことは罪悪の如く考へて居り、徒然草をさへ、余り良いものぢや無い、と評したといふ程だから、随分退屈な旅だつたらうが、それでもまだしも仕合せな事には少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の旅中の楽にして、※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]※[#二の字点、1−2−22]然《くゝぜん》として夕陽の山路や暁風の草径をあるき廻つたのである。
 秋は早い奥州の或山間、何でも南部領とかで、大街道とは二日路も三日路も横へ折れ込んだ途方も無い僻村の或寺を心ざして、其男は鶴の如くに※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]《や》せた病躯を運んだ。それは旅中で知合になつた遊歴者、其時分は折節|然様《さう》いふ人が有つたもので、律詩《りつし》の一二章も座上で作ることが出来て、一寸|米法《べいはふ》山水《さんすゐ》や懐素《くわいそ》くさい草書で白ぶすまを汚せる位の器用さを持つたのを資本《もとで》に、旅から旅を先生顔で渡りあるく人物に教へられたからである。君は然様いふ訳で歩いてゐるなら、これ/\の処に斯様いふ寺がある、由緒は良くても今は貧乏寺だが、其寺の境内に小さな滝が有つて、其滝の水は無類の霊泉である。養老の霊泉は知らぬが、随分響き渡つたもので、二十里三十里をわざ/\其滝へかゝりに行くものもあり、又滝へ直接《ぢか》にかゝれぬものは、寺の傍の民家に頼んで其水を汲んで湯を立てゝ貰つて浴する者もあるが、不思議に長病が治つたり、特《こと》に医者に分らぬ正体の不明な病気などは治るといふことであつて、語り伝へた現の証拠はいくらでも有る。君の病気は東京の名医達が遊んで居たら治るといひ、君もまた遊び気分で飛んでも無い田舎などをノソ/\と歩いてゐる位だから、とてもの事に其処で遊んで見たまへ。住持と云つても木綿の法衣《ころも》に襷を掛けて芋畑麦畑で肥柄杓《こえびしやく》を振廻すやうな気の置けない奴、それと其弟子の二歳坊主が居るきりだから、日に二十銭か三十銭も出したら寺へ泊めても呉れるだらう。古びて歪んでは居るが、座敷なんぞは流石に悪くないから、そこへ陣取つて、毎日風呂を立てさせて遊んで居たら妙だらう。景色もこれといふ事は無いが、幽邃《いうすゐ》で中※[#二の字点、1−2−22]佳いところだ。といふ委細の談《はなし》を聞いて、何となく気が進んだので、考へて見る段になれば随分頓興で物好なことだが、わざ/\教へられた其寺を心当に山の中へ入り込んだのである。
 路は可なりの大さの渓に沿つて上つて行くのであつた。両岸の山は或時は右が遠ざかつたり左が遠ざかつたり、又或時は右が迫つて来たり左が迫つて来たり、時に両方が迫つて来て、一水遥に遠く巨巌の下に白泡《しらあわ》を立てゝ沸り流れたりした。或場処は路が対岸に移るやうになつてゐる為に、危い略※[#「彳+勺」、155−下−16]《まるきばし》が目の眩《くるめ》くやうな急流に架つて居るのを渡つたり、又|少時《しばらく》して同じやうなのを渡り反つたりして進んだ。恐ろしい大きな高い巌が前途《ゆくて》に横たはつてゐて、あのさきへ行くのか知らんと疑はれるやうな覚束ない路を辿つて行くと、辛うじて其の岩岨《いはそば》に線《いと》のやうな道が付いて居て、是非無くも蟻の如く蟹の如くになりながら通り過ぎてはホッと息を吐くことも有つて、何だつてこんな人にも行会はぬ所謂僻地窮境に来たことかと、聊か後悔する気味にもならざるを得ないで、薄暗いほどに茂つた大樹の蔭に憩ひながら明るく無い心持の沈黙を続けてゐると、ヒーッ、頭の上から名を知らぬ禽が意味の分らぬ歌を投げ落したりした。
 路が漸く緩くなると、対岸は馬鹿※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく高い巌壁になつて居る其下を川が流れて、此方《こちら》は山が自然に開けて、少しばかり山畠が段※[#二の字点、1−2−22]を成して見え、粟や黍が穂を垂れて居るかとおもへば、兎に
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