の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が怯《よわ》くても剛《つよ》くても、親父の善悪は忰《せがれ》の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落《おいおと》されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人《かんべくらんど》の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの齢《とし》だが、沸《たぎ》り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩《けんか》の活動写真を看ながら、アメチョコを嘗《な》めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の閃《ひらめ》きが見えたことであろう、信長は賢秀に対《むか》って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬《と》る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正《だんじょう》[#(ノ)]忠《ちゅう》の忠の字に因《ちな》み、忠三郎|秀賦《ひでます》と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚《ほ》れないだろうが、別に斯様《こう》いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様《とざま》なので、後に至って信長が其将材を憚《はばか》って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を需《もと》められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに終《しま》ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一|聯《れん》で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談《はなし》だから雑輩は席に居らぬ。燭《しょく》を剪《き》り扇を揮《ふる》って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々《やや》遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡《いねむり》をせぬまでも、十三歳やそこらの小童《こわっぱ》だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を有《も》っているのだ。流石《さすが》に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎《かんたん》して、畏《おそ》るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分|怜悧《りこう》な芸妓《げいしゃ》でも、可《い》い加減に年を取った髯面《ひげづら》野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡《いねむ》り[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確《しか》と見定めるところがあって、そして吾《わ》が婿にと惚《ほ》れ込んだのであろう。
 鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負《そむ》かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解《けっかい》十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑《うちあわび》を取って賜わったが、そこで愈々《いよいよ》其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人《めのと》加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、
前へ 次へ
全39ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング