んがい》の馬幟《うまじるし》を立て、是は近き頃下野の住人、一家|惣領《そうりょう》の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三[#(ツ)]頭|左靹絵《ひだりどもえ》の紋の旗を吹靡《ふきなび》かせ、凜々《りんりん》たる意気、堂々たる威風、膚《はだえ》撓《たゆ》まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一[#(ト)]汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も聊《いささ》か怯《ひる》んだろう。そこを流石《さすが》は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が萎《な》えているようでは宜しく無いから、諸手《もろて》の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚《すぐはだ》に鎧《よろい》ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦《にしき》や練絹などで出来ているものを被《き》る。袴《はかま》短く、裾や袖《そで》は括緒《くくりお》があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂《ひたたれ》であるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂《いわゆる》戦袍《せんぽう》で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌《ふんどし》一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様《こう》いう大将で有って見れば、士卒も萎《し》けかえって顫《ふる》えて居るわけには行かぬ、力肱《ちからひじ》を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして焚《く》べて仕合せな事である。
 冗談は扨置《さてお》き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起《ほうき》は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、敵《かな》わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟《ひっきょう》は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのも
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