駿遠参《すんえんさん》に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を悦《よろこ》ばなくて、強いて秀吉の意に忤《さから》った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧《やしな》う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘《わがまま》に任せて吾《わ》が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀《なか》二万石にして終《しま》った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて直《じき》に和睦《わぼく》して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐《お》われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、確《しか》と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒《きょうだ》で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々《はかばか》しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次《つい》で出羽の秋田へ蟄《ちっ》せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ貶《へん》したのも余り酷《ひど》かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が是《かく》の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども些《ちと》酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを会《え》しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、予《かね》ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
 木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠
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