た訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの謀《はかりごと》で、斯《こ》の様な弱武者の木村父子を活餌《いきえ》にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生《こんちくしょう》めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣《ころも》を着とおすならば物のわかる狼だから其儘《そのまま》にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟《いわや》の傍《そば》に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が若《も》し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々《くれぐれ》も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概|草臥《くたび》れた狼を撲《ぶ》ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合《ねじあ》って居たら危気無しに背面から狼を胴斬《どうぎ》りにして終う分の事、という四本の鬮《くじ》の何《ど》れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠《にかわ》で貼《つ》けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《は》んでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫《ごう》も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚《へんき》性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は聊《いささ》か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈
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