るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦《わぼく》し難いような事情が起ると、第三者が窃《ひそ》かに其下に助力して其主権者を逐落《おいおと》し、そして其土地の主人となって終《しま》うのである。或は特《こと》に利を啗《くら》わせて其下をして其上に負《そむ》かせて我に意《こころ》を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦|是《かく》の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発《おこ》させるのが「嘱賂《そくろ》を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも上《かみ》にも下《しも》にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀《めず》らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾《われ》に内通させて氏家吉継と与《とも》に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様《どう》だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政《ひせい》が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又|手強《てごわ》かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田《にった》駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙《けせん》の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米《とめ》郡の登米《とよま》という
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