《こう》も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇《うちわ》を揮《ふる》って放談するという格で語ろう。
今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤《ちからこぶ》を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁《ほるい》を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服《なり》をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷《ひど》い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕《とうこん》を談ずるような埒《らち》も無いことで、何も彼も滅茶《めちゃ》滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷《ちまた》となった。当時の武士、喧嘩《けんか》商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽《ひ》き鷹を肘《ひじ》にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落《しゃれ》た遊技を知っているほど怜悧《れいり》でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕《ばくち》を打って閑《ひま》を潰《つぶ》す。戦《いくさ》ということが元来博奕的のものだから堪《たま》らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行《はや》る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭《か》ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止《や》められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々《いよいよ》負けて復《また》取られて終うと、終《つい》には賭けるものが無
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