いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時が逼《せま》って来た。其年の九月には家康から使が来、又十二月には玄越というものを遣わして、関白の命を蒙《こうむ》って仙道の諸将との争を和睦《わぼく》させようと存じたが、承れば今度和議が成就した由、今後|復《また》合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来た。これは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉《ちしつ》されているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意を猜《すい》すれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すを悦《よろこ》ばざること分明であることが、政宗の※[#「匈/月」、1015−上−9]中《きょうちゅう》に映らぬことは無い。それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広を凹《へこ》ませ、とうとう会津を取って終《しま》ったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳である。そこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近|将監《しょうげん》や施薬院玄以に書を与えて、何様《どん》なものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名は予《か》ねてより通聘《つうへい》して居るのに、貴下が勝手に之を逐《お》い落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云って遣《よこ》した。もう此時は秀吉は小田原の北条を屠《ほふ》って、所謂《いわゆる》「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽を刃《やいば》に血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三好秀次からも、明年小田原征伐の砌《みぎり》は兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である。明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院《りょうがくいん》という者を京都へ遣った。三月は斎藤
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