する士《さむらい》どもを手なずけて終《つい》に伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹《ぼうちょう》したのである。此の早雲という老夫《おやじ》も中々食えない奴で、三略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が檐端《のきば》の茅《かや》を引抽《ひきぬ》いて焚付《たきつ》けにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、凄《すさま》じい聡明《そうめい》な先生だった。が、金貸をしたというのは蓋《けだ》し虚事ではなかろう。地生《じおい》の者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の地に達したという話だ。嘘《うそ》八百万両も貸付けたら小人島《こびとじま》の政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた。下女が乱暴に焚付《たきつけ》を作ることまで知った長氏に起って、生の麦を直《すぐ》に炊けるものだと思っていた氏政に至って、もう脉《みゃく》はあがった。麦の炊きようも知らない分際で、台所奉行から出世した関白と太刀打《たちうち》が出来るものでは無い。関白が度々|上洛《じょうらく》を勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張《からいば》りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪《たま》らない。待ってましたと計《ばか》りに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田《さなだ》を山道より先鋒《せんぽう》として、前田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、安房《あわ》の諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰《もみつぶ》させて、小田原へ取り詰めた。
最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤《せんしょう》などを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北条氏は碌《ろく》に踏出しても居ず、ま
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