もみうら》打ったる鎧下《よろいした》、色々糸縅《いろいろおどし》の鎧、小梨打《こなしうち》の冑《かぶと》、猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織して、手鑓《てやり》提《ひっさ》げ、城内に駈入り鑓を合せ、目覚ましく働きて好き首を取ったのは、猛《たけ》きばかりが生命《いのち》の武者共にも嘆賞の眼を見張らさせた。名古屋は尾州の出で、家の規模として振袖《ふりそで》の間に一[#(ト)]高名してから袖を塞《ふさ》ぐことに定まって居たとか云う。当時此戦の功を讃えて、鎗仕《やりし》鎗仕は多けれど名古屋山三は一の鎗、と世に謡われたということだが、正《まさ》に是《これ》火裏《かり》の蓮華《れんげ》、人の眼《まなこ》を快うしたものであったろう。或は山三の先登は此の翌年、天正十九年九戸政実を攻めた時だともいうが、其時は氏郷のみでは無く、秀次、徳川、堀尾、浅野、伊達、井伊等大軍で攻めたのだから、何も氏郷が小小姓まで駈出させることは無かったろう。此の戦は瞬間に攻落すことを欲したから、北村、名古屋の輩までに力を出させたのである。それは兎もあれ角もあれ、敵も一生懸命に戦ったから、蒲生勢にも道家孫一、粟井六右衛門、町野新兵衛、田付理介等の勇士も戦死し、兵卒の討死手負も少くなかったが、遂に全く息もつかせず瞬く間に攻落して終《しま》って、討取る首数六百八十余だったと云うから、城攻としては非常に短い時間の、随分激烈|苛辣《からつ》の戦であったに疑無い。
 政宗は謀った通りに氏郷を遣り過して先へ立たせて仕舞った。氏郷は名生の城へ引掛るに相違無い、と思った。そこで、いざ急ぎ打立てや者共と、同苗藤五郎成実、片倉小十郎景綱を先手にして、揉《も》みに揉んで押寄せた。ところが氏郷の手配《てくばり》は行届いて居て、彼《か》の三隊の後備は三段に備を立てて、静かなること林の如く、厳然として待設けて居た。すわや政宗寄するぞ、心得たり、手を出さば許すまじ、弾丸《たま》振舞わん、と鉄砲の火縄の火を吹いて居る勢だ。名生の城は既に落されて烟《けむり》が揚り、氏郷勢は皆城を後にして、政宗如何と観て居るのである。これを看て取った政宗は案に相違して、何様《どう》にも乗ろう潮が無い。仕方が無いから名生の左の野へ引取って、そこへ陣を取った。
 氏郷は名生の城へ入って之に拠った。政宗が来ぬ間に城を落して終ったから、小田山筑前と同じようにはならなかった
前へ 次へ
全77ページ中64ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング