られ、北には岩出山の城、東北には新田の城、宮沢の城、高清水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆《いっき》が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依って桑折城、東の一方を除いては三方皆山であるから、四方策応して取って掛られたが最期、城に拠って固守すれば少しは支え得ようが、動こうとすれば四年前の小山田筑前の覆轍《ふくてつ》を履《ふ》むほかは無い。氏郷が十二分の注意を以て、政宗の陣の傍へ先手《さきて》の四将を置いたのは、仮想敵にせよ、敵の襟元に蜂を止まらせて置いたようなものである。動静監視のみでは無い、若《も》し我に不利なるべく動いたら直に螫《さ》させよう、螫させて彼が騒いだら力足を踏ませぬ間に直に斬立《きりた》てよう、というのである。七八町の距離というのは当時の戦には天秤《てんびん》のカネアイというところである。
 小山田筑前が口措くも大失敗を演じた原因は、中新田の城を乗取ろうとして掛ったところ、城将|葛岡監物《くずおかけんもつ》が案外に固く防ぎ堪《こら》えて、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請い、義隆が直ちに諸将を遣わしたのに本づくので、中新田の城の外郭《そとぐるわ》までは奪《と》ったが、其間に各処の城々より敵兵が切って出たからである。譬《たと》えば一箇の獣《けもの》と相搏《あいう》って之を獲ようとして居る間に、四方から出て来た獣に脚を咬《か》まれ腹を咬まれ肩を攫《つか》み裂かれ背を攫み裂かれて倒れたようなものである。氏郷は今それと同じ運命に臨まんとしている。何故といえば氏郷は中新田城に拠って居るとは云え、中新田を距《さ》ること幾許《いくばく》も無いところに、名生《めふ》の城というのがあって、一揆が籠っている。小さい城では有るが可なり堅固の城である。氏郷が高清水の方へ進軍して行けば、戦術の定則上、是非其の途中の敵城は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪えれば、氏郷に於ける名生の城は恰《あたか》も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるのである。しかも政宗は高清水の城まで敵の城は無いと云ったのであるから、蒲生軍は名生の城というのが有って一揆が籠って居ることを知らぬのである。されば氏郷は明日名生の城に引かかったが最期である、よしんば政宗が氏郷に斬って掛らずとも、傍観の態度を取るだけとしても
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