切って、長やかなる陣刀の鐺《こじり》あたり散らして、寄付《よりつき》の席に居流れたのは、鴻門《こうもん》の会に樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》が駈込んで、怒眼を円《つぶら》に張って項王を睨《にら》んだにも勝ったろう。外面《そとも》は又外面で、士卒各々|兜《かぶと》の緒を緊《し》め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀《たち》を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは仮令《たとい》政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては※[#「にんべん+(先+先)/日」、1038−下−25]上《せんじょう》に堪うる能《あた》わざらしむるものであるから、織田|有楽《うらく》の工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったと記《おぼ》えている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で饗応《きょうおう》でも仕たろうが、鎧武者《よろいむしゃ》を七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免|蒙《こうむ》ったろう。扨《さて》政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談|取交《とりま》ぜて、寧《むし》ろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に一揆《いっき》の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町(六町程|歟《か》)百四十里ばかりにて候、其間に一揆の籠《こも》りたる高清水と申すが佐沼より三十里|此方《こなた》に候、其の外には一つも候わず、と謀《はか》るところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、精《くわ》しく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。然《さ》候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を踏潰《ふみつぶ》し候わん、と氏郷は云ったが、目論見《もくろみ》の齟齬《そご》した政宗は無念さの余りに第二の一
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