いた北条氏であった。エエ面倒な奴、一[#(ト)]かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆《たいはい》の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一[#(ト)]かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順《したが》って解けなければ引ッコ抜かれるか※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]断《ひっちぎ》られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承《う》けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰《こ》えて大森に向い、相馬|弾正大弼《だんじょうたいひつ》と畠山|右京亮義継《うきょうのすけしつぐ》、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒《せんぽう》になろうと父に請うた位に気嵩《きがさ》で猛《さか》しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読《たんどく》したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様《どう》であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐《お》いつ返しつして、次第次第に斬勝《きりか》って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨《またが》り、南は白川を越して、下野《しもつけ》の那須、上野《こうつけ》の館林までも威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《いえん》は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特《こと》に去年蘆名義広との大合戦に、流石《さすが》の義広を斬靡《きりなび》けて常陸《ひたち》に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津《あいづ》を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々《いよいよ》南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた
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