にして大江の水の如くなる白雲たなびき渡り、村もかくし川もかくし山々谿々も匿《かく》しはてゝ、下界を海の底に沈め尽したるが如くに見せたる、雲のわざとは知りながら流石に馴れぬ眼には驚かるゝものなり。開門忽怪山為海、万畳雲濤露一峰と詩にいへるも、まことによく云ひ得たりといふべし。

      雲中の夢

 上にあげたる如き白雲の中に眠りても人の夢は猶塵境に迷ひて、おろかなる事のみ見るものなり。「白雲の中に寐《いね》ても山をいでゝ塵のちまたに通ふ夢かな」とは我がある時の実際をよみたる吟なりき。

      雲のさま

 韓雲は布の如く、趙雲は牛の如く、楚雲は日の如く、宋雲は車の如く、衛雲は犬の如く、周雲は輪の如く、秦雲は行人の如く、魏雲は鼠の如く、斉雲は絳衣の如く、越雲は龍の如く、蜀雲は※[#「※」は「菌のくさかんむりを除いた形」、第4水準2−4−56、231−4]《きん》の如し、と云へるはいとをかし。地に定まりたる雲あり、雲に定まりたる形あるべきにや。おほよそは定まりもあるべし、詳しくはいかゞ。江戸の坂東太郎、浪花の丹波太郎、九州の比古太郎、近江あたりの信濃太郎、これらは雲の出づる方により負はせたる名なれば、けしうもあらず。加賀の鼬雲、安房の岸雲、播磨の岩雲などは、其土の人々の雲の形を然《しか》思ひ做して然呼び做したるなるべければ、魏雲鼠の如く斉雲絳衣の如しなどいへるも、魏斉の俗に鼠雲絳衣雲等の称ありて後云ひ出せることにや。単に一人の口よりほしいまゝに、いづくの雲はそれのものの形に似たりなど云はんは、余りに烏滸《おこ》にしれたるわざなるべし。

      かさほこ雲

 南の方の天にさしがさを開きたるやうに立つ雲を、かさほこ雲といふとぞ。其雲やがて破れて、その破れたる方より風吹くと聞きたれど、市中にのみ住める身の、未だよく見知るべき時にあはざるこそ口惜けれ。

      かなとこ雲

 東の方に築地をつきたる如く立つ白雲を、かなとこ雲といふよしなり。かなとこは鉄砧にて、其形鉄砧にも似たればなるべし。其雲先しりぞけば西風強く吹き、たちあがれば足をおろして雨となると伝ふ。東に白雲の築地の如く見えたるは眼にしたれど、猶かなとこ雲の風情といふを知らず。

      卿雲

 景雲といひ、卿雲といひ、慶雲といへる、しかと指し定められたる雲にはあらざるべし。卿雲爛たり糺縵々たり、といへる、煙にあらず雲にあらず紫を曳き光を流す、といへる、大人作矣、五色|氤※[#「※」は「气+慍のつくり」、読みは「うん」、第3水準1−86−48、232−9]《いんうん》、といへる、金柯初めて繞繚、玉葉漸く氤※[#「※」は「气+慍のつくり」、読みは「うん」、第3水準1−86−48、232−10]、といへる、還つて九霄に入りて※[#「※」は「さんずい+亢」、第3水準1−86−55、読みは「こう」、232−10]※[#「※」は「さんずい+餐の食を韭に変えたつくり」、第4水準2−79−44、読みは「がい」、232−10]《かうがい》を成し、夕嵐生ずる処鶴松に帰る、といへる詩の句などによりて見れば、帰するところは美しき雲といふまでなり。一年の中に幾度か爛たる雲の見えざらん。若しまた余りに美しき眼なれぬ雲などの出でたらんは、気中のさまの常ならぬよりなるべければ、却つて悦ぶべからざるに似たり。五色の雲など何にせん、天は青きがめでたく、雲は白きこそ優しけれ。八雲立つの神の御歌を解きて、その時立ちし雲は天地のみたまの顕《あら》はせりし吉瑞にて、いともくしびなる雲なりけむなど橘の守部が云へるは、当れりや否や、知らず。くしびなる雲とは如何なる雲ぞや、問はまほし。八雲立ちといひたまはで、八雲立つと言い切り玉へるも彼の奇しき瑞雲に驚かせ給へる語勢なりなどいへる、ことに奇しき言なり。崇神紀の歌に、八雲立つ出雲梟師が云々と歌へるも、八雲たちとは云はで八雲立つといひたるなれば、驚きたる語勢なりといふべきか、いと奇しき言なり。



底本:「露伴全集 第29巻」岩波書店
   1954(昭和29)年12月4日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を次の通りあらためました。
1.常用漢字表、人名漢字別表に掲げられている漢字を新字にあらためました。
  ただし、人名については底本のままとしました。
※「山々」「勃々」「蝶々」などの「々」は、底本では二の字点(第3水準1−2−22)を使用
入力:地田尚
校正:今井忠夫
2001年6月18日公開
青空文庫作成ファイル:
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