我等が思ひも寄らぬあたりのものをも歌の材として用ゐ居るなり。
望雲楼
東坡が望雲楼の詩に、陰晴朝暮幾回新、已向虚空付此身、出本無心帰亦好、白雲還似望雲人、といへる、さすがにをかしからぬにはあらねど、なほ下の心のあるやうにて、白雲点頭すべきや否や覚束無し。
寂蓮の雲の歌
「風にちるありなし雲の大空にたゞよふほどや此世なるらん」といへる寂蓮法師の歌こそおもしろけれ。雲のはかなき、此世のたのみなきは知れわたりたる事なれど、かく美しく歌ひ出されたるを二度三度吟じかへせば、また今さらに、雲のはかなさ、此世のたのみなさを身にしみて覚ゆるなり。風に散ると云ひ起したる既にいとあはれなるに、ありなし雲のと、めづらしくておだやかなる、しかも人の心を幽玄なる境にひきこむやうなる言葉を用ゐて、さて其後に、大空にと、広大なるものを拈出し、たゞよふほどや此世なるらんと、あはれに悲しき長歎のおもひの上に結びとゞめたる、誰か感無しと此歌に対ひて云ひ罵り得ん。心しづかに三たびも唱ふれば、紛々たる名利の境を捨てゝ寂静の土に往かんと願ふ厭欣《をんぐ》の念、油然として湧き出づるを覚ゆるなり。
いわしぐも
鰯雲といふは、鰯などの群るゝ如く点々|相連《あひつらな》りて空に瀰るものを云ふなり。晴れたる日の夕暮など多く見ゆるなるが、雨気を含むものにや。さては水まさ雲と同じかるべし。「芝浦の漁人も網を打忘れ月には厭ふいわし雲かな」といへる狂歌、天明頃の人の咏にあり。青き空の半ほど此雲白くつらなりて瀰《わた》れる、風情ありて美はし。童児などは、此雲を指さして、鰯の取るゝ兆なりといふもまたをかし。
とよはた雲
とよはた雲とは、しかと雲の名にはあらぬなるべし。信實の歌にては、夕立する頃の例のいかめしき雲を云へるが如く、後鳥羽院の御歌にては、たゞ美しき夕の雲をさし玉へるが如し。「わだつみのとよはた雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ」といへる天智天皇の御歌に見えたるがはじめなるに、御歌にては、旗の形なせるやうの夕の雲を云ひたまへるのみなり。雲の旗の如く見ゆることは多し、旗雲といふ語は今無きやうなり。
ほそまひ雲
布を引きたるやうに白くおだやかに空にわたる雲あり。大抵此雲見ゆる時は、空青く澄みて色美しく凪ぎわたりたるに、刷毛にてひきたる如く淡く白く天に横たはるなり。これを何といふ名の雲ぞと折ふし老人などに問ひたれど教へ呉るゝ人も無く、彼《か》の雲出づるは天気よき兆なりと云ひしを聞きたるのみなりしに、海賊衆の一なる能島家の兵書によりて、ほそまひ雲といふものなりと知りぬ。名もゆかし、歌などにも用ゐ得べきか。
翻雲覆雨
翻手為雲覆手雨とは人も知りたる貧交行の中の句にして、句意はたゞ反覆常ならぬことを云ひたるまでなるに、支那の悪小説などには怪しからぬことを形容する套語として用ゐられたるが多し。もとの意義人の美を形容したるにはあらざるべき沈魚落雁などいふ語の、美を形容する套語となれる如く、いとをかしき誤謬《あやまり》なり。
雲の行くかた
雲東に行けば車馬通じ、雲西に行けば馬泥を濺ぎ、雲南に行けば水潭に漲り、雲北に行けば麦を晒すに好し、と支那にては云ひならはしたるに、雲北に行けば雨ふるもののやう歌へる和歌のあるもをかし。「雨ふれば北にたなびく天雲を君によそへてながめつるかな」、「北へ行く夕の雲の大空にかさなるみれば雨はふりつゝ」などいへる、地異なり時異なれば、たがひあるべき道理ながら、思ひくらぶれば、如何にも那方《いづれ》かいつはりなるべきやう浅まなる心には思はるゝを免れず。雲南に向へば雨漂漂、雲北に向へば老鸛河を尋ねて哭し、雲西に向へば雨犁を没し、雲東へ向へば塵埃老翁を没す、といへる俗諺もある由なれば、彼もいつはらず、これもいつはらざるなるべし。我が邦の俗書に、朝に西北の方に黒雲見ゆるは雨なり、といひ、青き雲北斗を蔽へば大雨なり、などいへるあるを見れば、おしなべて我が邦にては、麦を晒すに好しといひ、老鸛河を尋ねて哭すというやうなる事は、云ひ得ざるにや。語を訳すことの易くして意を伝ふる事の難きは、かゝる事の多ければなり。前にあげたる光俊の歌を訳して支那の村老野人に示さんには、恐らくは嘲《あざ》み笑はれん。
南へ行く雲
東京にては雲の南へ行く時火災多し。明暦三年より明治十四年までの間に大火九十三度ありて、中二十二三度のほかは、雲南の方へ走り、若くは南東南東西の方へ走りたる時なり。冬は多く北風吹き、火のあやまちは冬多きものなれば、怪むべくもあらぬ事ながら、東京の大火を叙せんとて、心も無く、北へ行く雲に火の色うつりて天は紅霞のわたれるが如し、など別の故も無きに
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