十二の瀧の一つで、華嚴に近く、向つて右手のものは、高さが百三十尺もあるといふから、たとへ衞星的のものですらも他處へ持出せば、壯觀だの偉觀だのといはれるに足りるのである。これを以て推《お》して華嚴の雄大を知るべしである。
まして此境《こゝ》が冬になつて氷雪の時にあへば、岩壁四圍悉く水晶とこほり白壁と輝いて、たゞ一條|長《とこし》へに九天より銀河の落つるを看る、その美しさは夏季に勝ることは遠いものであらうが、今は、千年流れて盡きず、六月地|長《とこし》へに寒しといふ詩の句の通り、人をして萬斛《ばんこく》の凉味に夏を忘れしめ、飛沫餘煙翠嵐を卷いて、松桂千枝萬枝|潤《うるほ》ひ、龍姿雷聲白雲を起して、岩洞清風冷雨鎖してゐる快さをもつて吾人を待つてくれる。この華嚴の景を直寫しようとして、石偏《いしへん》や山偏や散水《さんずゐ》や雨冠《あまかんむり》の字を澤山持ち出したら千言二千言の文の綴るのも難事では有るまいが、活字制限の世の中に文選《もんぜん》的の詞章を作つて活字の文選者《ぶんせんしや》を弱らせたとて野暮《やぼ》なことであるし、女學生や小學生も修學旅行で昵懇になつてゐる場所のことを、今更らしく艮齋張《ごんさいば》りの文なぞにするのも餘り小兒《こども》臭いから、夏向はすべて抛下著《はうげぢやく》にかぎると、あつさり瀧の水に流してしまつて、煙草のしめる瀧壺の冷え、その煙草から李白の詩句では無いが紫煙を生じさせてゆつくり一休み。
五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。五郎兵衞老人は華嚴の瀧が立派な瀧であるに拘らず適當な觀賞場所が無くて、たゞ瀧見臺から觀望するに過ぎぬ事を他國の人々が飽かず思ふのを道理と感じた。そしてこれは瀧壺へ下りさせるに足る徑《みち》を開くに限ると考へた。本業は人を使つて山深く入つて曲物《まげもの》(日光名物であるに拘らず、今はこれを鬻《ひさ》いでゐることの少いのは遺憾だ)の材料たる木をとるのであつたが、その事を思ひ立つてから、獨力で測量し、獨力で開鑿しはじめた。人々はそんな無理な事が出來るものかと嗤笑《しせう》した。非難や嗤笑は、世の中の賢顏《かしこがほ》する詰らない男、ガスモク野郎、十把一《じつぱひと》からげ野郎の必ず所有してゐる玩具《おもちや》である。五郎兵衞老人は玩具におどかされるやうな男
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