こと、牡丹などの如くなるものならん。月丹、照殿紅などは、唐土《もろこし》にての花大なるものの名なり。わびすけ、しら玉は我邦にての花白きものの名なり。藪椿のもさ/\と枝葉茂れるが中に濃き紅の色して咲ける、人は賤しといふ、我はおもしろしと思ふ。わびすけの世をわび顔に小さく咲ける、人は見るに栄《はえ》無しといふ、我はをかしと思ふ。こせ山のつら/\つばきと歌にいへるも、いかで今の人の美しとほむるきはの花ならんや。
 つばきは葉もよし。いつも緑にして光ある、誰か愛づるに足らずといふべきや。松杉の常盤なるとは異りて、これはまた、これのおもむきあり。奉書といふ紙を造るをり、この葉の用ゐらるゝことあるに定まれるもをかし。

      側金盞花

 福寿草は、小さき鉢に植ゑて一月の床に飾らるゝものと定まれるやうなり。野山に生ひたるは、画にこそ見たることもあれ、まことには眼にしたる事無し。さすがに、ゆかしきかたも無きにはあらず。されどこの花、備後おもての畳の上にのみある人の愛づべきものなるべし。土踏むことを知りたるものの心ひくべきおもむきは有たざらむ歟《か》。款冬花《ふきのたう》にはほゝゑみたる事あり、この花には句を案じたること無し。

      杏

 あんずと漢《から》めきたる名を呼ばるゝからもゝの花は、八重なる、一重なる、ともに好し。ことに八重の淡紅《うすくれなゐ》に咲けるが、晴れたる日、砂立つるほどの風の急《にはか》に吹き出でたるに、雨霰と夕陽《ゆふひ》さす中を散りたるなど、あはれ深し。名も無き小川のほとりなる農家の背戸の方に一本《ひともと》二本《ふたもと》一重なるが咲ける、其蔭に洗はれたる鍋釜の、うつぶせにして日に干されたるなんど、長閑なる春のさま、この花のあたりより溢れ出づる心地す。

      山桜桃

 にはうめは、いと小さき花の簇《む》れて咲くさま、花の数には入るべくもあらず見ゆるものながら、庭の四つ目籬の外などに、我は顔《がほ》もせず打潜みたる、譬へば田舎より出でたる小女の都慣れぬによろづ鼻白み勝にて人の背後《うしろ》にのみ隠れたるが、猶其の姿しほらしきところ人の眼を惹くが如し。枝のしなやかなる、葉のこは/\しからぬ、花のおもむきに協《かな》ひて憎からず。この花を位無しとは我もおもへ、あはれげ無しとは人も云はざらん。

      桃

 桃は書を読みたることも無く、歌をつくるすべも知らぬ田舎の人の、年老いて世の慾も失せたるが、村酒の一碗二碗に酔ひて罪も無く何事をか語り出でつ高笑ひなせるが如し。野気は多けれど塵気は少し。なまじ取り繕ひたるところ無く、よしばみて見えざるところ、却つて嬉し。川を隔てゝ霞の蒸したる一ト村の奥に尽頭《はづれ》に咲き誇りたるを見たる、谷に臨みて春風ゆるく駐《とど》まるべき崖下などの小家包みて賑はしく咲けるを見たる、いづれをかしき趣あらぬは無し。この花を俗なりといひて謗る男あり。おほかたはおのれが少しの文字知りたるより、我が親を愚なりと云ひくだすきはの人なるべくや。片腹いたし。

      木瓜

 ぼけは、緋なるも白きも皆好し、刺《とげ》はあれど木ぶりも好ましからずや。これを籬にしたるは奢りがましけれど、処子が家にもさばかりの奢りはありてこそ宜かるべけれ。水に近き郷なるこれが枝には蘚《こけ》の付き易くして、ひとしほのおもむきを増すも嬉し。狭き庭にては高き窓の下、蔀《したみ》のほとり、あるは檐のさきなどの矮き樹。広き庭にては池のあなた、籬の隅、あるは小祠の陰などのやゝ高き樹。春まだ更《た》けぬに赤くも白くも咲き出したる、まことに心地好し。

      榲※[#「※」は「木へん+孛」、読みは「ぼつ」、第3水準1−85−67、134−2]

 東京にはまるめろの樹少し、北の方の国々には多きやうなり。我が嘗て住みし谷中の家の庭に一|本《もと》の此樹ありき。初めは名をだに知らざりければ、枝葉のふりも左のみ面白からぬに、幹の瘤多きも見る眼|疚《やま》しく、むづかしげなる人に打対ひ立つ心地して、をかしからずとのみ思ひ居りけるが、或日の雨の晴れたるをり、ゆくりなくも花の二つ三つ咲き出でたるを見て、日頃の我が胸の中のさげすみを花の知らばと、うらはづかしくおぼえき。花は淡紅《うすくれなゐ》の色たぐふべきものも無く気高く美しくて、いやしげ無く伸びやかに、大さは寸あまりもあるべく、単弁《ひとへ》の五|片《ひら》に咲きたる、極めてゆかし。花の白きもありとかや、未だ見ねば知らねど、それも潔かるべし。むかし孔子の弟子に子羽といへる人ありて、其猛きこと子路にも勝れり。璧を齎《も》ちて河を渡りける時、河の神の、璧を得まくおもふより波を起し、蛟《みづち》をして舟を夾《はさ》ましめ其《そ》を脅《おど》し求むるに遇ひしが、吾は義を以て求むべし、威を以て劫《おびやか》すべからずとて、左に璧を操《と》り右に剣を操り、蛟を撃ちて皆殺しにしけるとぞ。かゝる人なりければ其|面貌《つらつき》も恐ろしげに荒びて夷《えびす》などの如くなりけむ、孔子も貌を以て人を取りつ之を子羽に失しぬと云ひ玉へり。まるめろを子羽に擬《よそ》へんは烏滸の限りなれど、子羽といひし人、おほよそは喩へば此樹の如くにもありけむと、其後此花を見るたびに思ふも、花の添へたる智慧なれや。

      胡蝶花

 しやが、鳶尾草《いちはつ》は同じ類なり。相模、上野あたりにて見かくる事多し。射干《ひあふぎ》にも似、菖蒲《あやめ》にも似たる葉のさま、燕子花《かきつばた》に似たる花のかたち、取り出でゝ云ふべきものにもあらねど、さて捨てがたき風情あり。雨の後など古き茅屋《かやや》の棟に咲ける、おもしろからずや。すべて花は家の主人《あるじ》が眼の前に植ゑらるゝが多きに、此花ばかりは頭の上に植ゑらるゝこと多きも、あやしき花の徳といふものにや。おもへばをかし。

      躑躅花

 つゝじは品多し。花紅にして単弁《ひとへ》なるもの、珍しからねど真《まこと》の躑躅花のおもむきありと思はる。取りつくろはぬ矮き樹の一|本《もと》二本庭なる捨石の傍などに咲きたる、或は築山に添ひて一ト簇《むら》一ト簇なせるが咲きたる、いづれも美し。此花咲けば此頃よりやがて酒の味《あぢはひ》うまからずなりて、菊の花咲くまでは自ら酒盃《さかづき》に遠ざかること我が習ひなり。人は如何にや知らず、我は打対ひて酒飲むべき花とは思はず。

      李花

 すもゝの花は、淋しげに青白し。夜は疑ふ関山の月、暁は似たり沙場の雪、と古の人の詠《よ》みしもいつはりならず。貧しげなる家の頽れかゝりたる納屋のほとり、荒れたる籬の傍などに咲きたる、春の物としも無く悲し。歌に、消えがての雪と見るまで山がつのかきほのすもゝ花咲きにけり、といへるもまことにおもしろし。実《げ》に山がつのかきほなどにこそ此花咲きてふさはしかるべけれ。それも花繁く間《あはひ》遠からではをかしからじ。李花遠きに宜しく更に繁きに宜しと楊萬里の云ひたるは、よく云ひ得たりといふべし。

      玉蘭花

 もくれんは辛夷《こぶし》の類なり。花白きあり紫なるあれど、玉蘭といへば白き方をさすなるべし。散りぎははおもしろからねど、今や咲かんとする時のさまいと心地よく見ゆ。たとへば肥へて丈高き女の、雪と色白きが如し、眉つき眼つきは好くもあれ悪くもあれ、遠くより見たるに先づ心ひかる。されど此花の姿の、何となく漢《から》めきたるは、好かぬ人もあるべし。さる代りには、大寺の庭などに咲きて、其漢めきたるところあるがために褒めたゝへらるゝこともあるなるべし。

      梨花

 李の花は悲しげなり、梨の花は冷《つめた》げなり。海棠の花は朝の露に美しく、梨の花は夕月の光りに冴ゆ。桜の花は肉づきたり、梨の花は※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62、137−3]《や》せたり。花の中のそげものとや梨をばいふべき。飽まで俗ならで寂びたる花なり。異邦《ことくに》には色紅なる千葉のものもありときく。さる珍しきものならぬも、異邦のは我邦のより花美しきにや。また或は我邦にては果《み》を得んとのみ願ひて枝を撓《た》め幹を矮くするため、我も人もまことの梨の樹のふり花のおもむきをも知ること少く、おのづから美しきところを見出すをりも乏しく過ぎ来つる故にや。詩に比べては歌には梨の花を褒め称ふること稀なり。

      薔薇

 刺あるをもて薔薇の花を、心に毒ありて貌美しき女に擬《よそ》へんは余りに浅はかなるべし。刺も緑の茎に紅く見えたる、おもむき無きならず。我さへ触れずば憎かるべきにもあらぬを、よそに見るだに忌はしき人の心の毒に比べんは如何にぞや。花の色の美しき、香の濃き、枝ぶり、葉ぶり、実のさま、刺のさま、いづれか厭はしかるべき。支那西洋の人たちの此花を愛づる、まことに所以あり。白きが暁の風に嘯きたる、紅きが日の午に立てる、或は架に倚りて※[#「※」は「食へん+昜」、第4水準2−92−64、137−13]《あめ》の如き香気を吐きたる、或は地に委して火に似たる光※[#「※」は「艷の正字」、第4水準2−88−94、138−1]《くわうえん》を発したる、皆好し。たゞ此花の何と無く油こきやうに思はるゝはをかし。如何なるものを地より吸ひけん、知らず。

      紫藤

 春の花いづれとなく皆開け出《いづ》る色ごとに目おどろかぬは無きを、心短く打すてゝ散りぬるが恨めしうおぼゆるころほひ、此花の独《ひとり》たち後れて夏にさきかゝるなん、あやしく心にくゝ、あはれにおぼえ侍る。と古の人の云ひたる藤の花こそ、花の中にもいと物静かにして而も艶なるものなれ。古りたる園の、主変りて顧みられずなり行き、籬は破れ土は瘠せ、草木も人の手の恵《めぐみ》に遠ざかりたるより色失せ勢|萎《な》へて見る眼悲しくなりたるが中に、此花の喬《たか》き常盤樹の梢に這ひ上りて、おのが心のまゝに紫の浪織りかけて静けく咲き出でたるなど、特《こと》に花の色も身に染《し》みてあはれ深きものにぞ覚ゆる。紫の色に咲く桐の花、樗の花、いづれか床しき花ならぬは無けれど、此花は花の姿さへ其色に協ひたりとおぼしく、ひとしほ人の心を動かす。これの秋咲くものならぬこそ幸なれ。風冷えて鐘の音も清み渡る江村の秋の夕など、雲漏る薄き日ざしに此花の咲くものならんには、我必ずや其蔭に倒れ伏して死《しに》もすべし。虻の声は天地の活気を語り、風の温く軟《やはらか》きが袂軽き衣を吹き皺めて、人々の魂魄《たましひ》を快き睡りの郷に誘はんとする時にだも、此花を見れば我が心は天にもつかず地にもつかぬ空に漂ひて、物を思ふにも無く思はぬにも無き境に遊ぶなり。

      桐花

 朝風すゞしく地は露に湿《うるほ》ひたる時、桐の花の草の上などに落ちたるを見たる、何となく興あり。梢にあるほどは、人に知られぬもをかし。花の形しほらしく、色ゆかし。花弁《はなびら》のちり/″\にならで散ればにや、手に取りて弄びたき心地もするなり。

      ※[#「※」は「くさかんむり+溪」、読みは「けい」、139−6]※[#「※」は「くさかんむり+孫」、読みは「そん」、第3水準1−91−17、139−6]

 はなあやめは、花の姿やさしく、葉の態《さま》いさぎよし。心といふ字の形して開きたる、筆の穂の形して猶開かざる、皆好し。雨の日のものにはあらず、晴れたる日のものなり。夕のものにはあらず、暁または昼のものなり。人の力を仮らざれば花いと※[#「※」は「やまいだれ+瞿」、読みは「や」、第3水準1−88−62、139−9]す。されど、おのづからなるが沼などに弱々しく咲き出でたるものまた趣ありて、都にして見んには口惜き花のさまやなどいふべし、旅にして見れば然《さ》もおもはず。古き歌にいへるあやめはこれならずとかや。今上野あたりの野沢などに多く咲くものは何なるべきや。物の名の古と今との違ひは、しば/\よまむとおもふ歌をも心の疑ひに得読まで終らしむ。おろかなることかな。

      石竹

 
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