いちゅう》二巻を撰《せん》し、解縉《かいしん》をして、上疏《じょうそ》の中に、学の純ならざるを譏《そし》らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚《こうしょう》せず、嘗《かつ》て宗濂《そうれん》に謂《い》って、人君|能《よ》く心を清くし欲を寡《すくな》くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※[#「白+皐」、第4水準2−81−80]々《ききこうこう》として自《みずか》ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰《い》い、詩文を善《よ》くして、文集五十巻、詩集五巻を著《あらわ》せるも、※[#「澹のつくり」、第3水準1−92−8]同《せんどう》と文章を論じては、文はたゞ誠意|溢出《いっしゅつ》するを尚《たっと》ぶと為し、又洪武六年九月には、詔《みことのり》して公文に対偶文辞《たいぐうぶんじ》を用いるを禁じ、無益の彫刻|藻絵《そうかい》を事とするを遏《とど》めたるが如き、まことに通ずること博《ひろ》くして拘《とら》えらるゝこと少《すくな》く、文武を兼《か》ねて有し、智有を併《あわ》せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高《かいてんこ
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