るには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀《びもくそしゅう》、雍容都雅《ようようとが》、顧盻偉然《こべんいぜん》、卒爾《そつじ》に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡《しばしば》出《い》でゝ軍を湖広《ここう》陝西《せんせい》河南《かなん》に練り、左軍都督府事《さぐんととくふじ》となりたるほかには、為《な》すところも無く、其《その》功としては周王《しゅうおう》を執《とら》えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮《こひ》にして羊質《ようしつ》、所謂《いわゆる》治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※[#「足へん+諜のつくり」、UCS−8E40、305−1]《ふ》み剣を揮《ふる》いて進み、創《きず》を裹《つつ》み歯を切《くいしば》って闘《たたか》うが如き経験は、未《いま》だ曾《かつ》て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其《その》真を得たりしなり。
 李景隆は大兵を率いて燕王を伐《う》たんと北上す。帝は猶《なお》北方憂うるに足らずとして意《こころ》を文治に専らにし、儒臣|方孝孺《ほうこうじゅ》等《ら》と周官の法度《ほうど》を討論して日を送る、此《この》間《かん》に於て監察御史《かんさつぎょし》韓郁《かんいく》(韓郁|或《あるい》は康郁《こういく》に作る)というもの時事を憂いて疏《そ》を上《たてまつ》りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒《じゅじゅ》となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康《こうこう》の手足《しゅそく》なりとなし、之《これ》を待つことの厚からずして、周王|湘《しょう》王|代《だい》王|斉《せい》王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為《ため》に計る者の過《あやまち》にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為《な》し、諺《ことわざ》に曰《いわ》く、親者《しんしゃ》之を割《さ》けども断たず、疎者《そしゃ》之を続《つ》げども堅《かた》からずと、是《これ》殊《こと》に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜《び》し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈《ゆる》し、湘王を封《ほう》じ、周王を京師《けいし》に還《かえ》し、諸王|世子《せいし》をして書を持し燕に勧め、干戈《かんか》を罷《や》め、親戚《しんせき》を敦《あつ》うしたまえ、然らずんば臣|愚《ぐ》おもえらく十年を待た
前へ 次へ
全116ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング