だしてたれかそのよしをしらん》。
|奸臣得[#レ]計兮謀[#レ]国用[#レ]猶《かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ》。
|忠臣発[#レ]憤兮血涙交流《ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる》。
|以[#レ]此殉[#レ]君兮抑又何求《ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん》。
|嗚呼哀哉兮庶不[#二]我尤[#一]《あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ》。
[#ここで字下げ終わり]

 廖※[#「金+庸」、第3水準1−93−36]《りょうよう》廖銘《りょうめい》は孝孺の遺骸《いがい》を拾いて聚宝門外《しゅうほうもんがい》の山上に葬りしが、二人も亦《また》収められて戮せられ、同じ門人|林嘉猷《りんかゆう》は、かつて燕王父子の間に反間の計《はかりごと》を為《な》したるもの、此《これ》亦戮せられぬ。
 方氏一族|是《かく》の如くにして殆《ほとん》ど絶えしが、孝孺の幼子|徳宗《とくそう》、時に甫《はじ》めて九歳、寧海県《ねいかいけん》の典史《てんし》魏公沢《ぎこうたく》の護匿《ごとく》するところとなりて死せざるを得、後《のち》孝孺の門人|兪公允《ゆこういん》の養うところとなり、遂《つい》に兪氏《ゆし》を冒《おか》して、子孫|繁衍《はんえん》し、万暦《ばんれき》三十七年には二百|余丁《よてい》となりしこと、松江府《しょうこうふ》の儒学の申文《しんぶん》に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「※[#「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2−81−69]氏」]二子及び門人|王※[#「禾+余」、UCS−7A0C、395−2]《おうじょ》等《ら》拾骸《しゅうがい》の功また空《むな》しからず、万暦に至って墓碑|祠堂《しどう》成り、祭田《さいでん》及び嘯風亭《しょうふうてい》等備わり、松江《しょうこう》に求忠書院《きゅうちゅうしょいん》成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈《あに》後無く祠無くして泯然《びんぜん》として滅せんや。
 節《せつ》に死し族を夷《い》せらるゝの事、もと悲壮なり。是《ここ》を以て後の正学先生の墓を過《よ》ぎる者、愴然《そうぜん》として感じ、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として泣かざる能《あた》わず。乃《すなわ》ち祭弔《さいちょう》慷慨《こ
前へ 次へ
全116ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング