げんき》の兵乱に値《あ》う。年三十に近くして、愚庵《ぐあん》の及《きゅう》和尚に径山《けいざん》に従って禅学を習う。暇《いとま》あれば内外の典籍を披閲《ひえつ》して以《もっ》て才識に資す。因って河南《かなん》の二程先生《にていせんせい》の遺書と新安《しんあん》の晦庵朱先生《かいあんしゅせんせい》の語録を観《み》る。(中略)三先生既に斯文《しぶん》の宗主《そうしゅ》、後学の師範たり、仏老《ぶつろう》を※[#「てへん+(嚢−口二つ)」、361−8]斥《じょうせき》すというと雖も、必ず当《まさ》に理に拠《よ》って至公無私なるべし、即《すなわ》ち人心服せん。三先生多く仏書を探《さぐ》らざるに因って仏《ぶつ》の底蘊《ていおん》を知らず。一に私意を以て邪※[#「言+皮」、UCS−8A56、361−10]《じゃひ》の辞《ことば》を出して、枉抑《おうよく》太《はなは》だ過ぎたり、世の人も心|亦《また》多く平らかならず、況《いわ》んや其《その》学を宗《そう》する者をやと。(下略)道余録は乃《すなわ》ち程氏《ていし》遺書《いしょ》の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目《もく》して、極めて謬誕《びょうたん》なりと為《な》し、条を逐《お》い理に拠って一々|剖柝《ぼうせき》せるものなり。藁《こう》成って巾笥《きんし》に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵《たいてい》禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋《けだ》し明道《めいどう》、伊川《いせん》、晦庵《かいあん》の仏《ぶつ》を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如《ごと》き、本《もと》是《これ》弁じ易《やす》きの事たり。膽《たん》を張り目を怒らし、手を戟《ほこ》にし気を壮《さかん》にするを要せず。道衍の峻機《しゅんき》険鋒《けんぼう》を以て、徐《しずか》に幾百年前の故紙《こし》に対す、縦説横説、甚《はなは》だ是《こ》れ容易なり。是れ其の観《み》る可き無き所以《ゆえん》なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道《めいどう》の言を罵《ののし》って、豈《あに》道学の君子の為《わざ》ならんやと云《い》い、明道の執見《しっけん》僻説《へきせつ》、委巷《いこう》の曲士の若《ごと》し、誠に
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