あたるべき時は来りて、老《おい》の身に病を得しより長者は枕《まくら》つひにあがらず、いよいよ生命《いのち》終るべく定まりたり。時に長者は二人の子を枕|辺《べ》に招きて、死するも生くるも天命なれば汝等《そちたち》みだりに歎くべからず、ただ我|終焉《いまわ》に臨みて汝等に言ひ置くことあれば能《よ》く心に留めて忘るるなかれ、我《わ》が亡《な》き後《のち》は汝等二人決して分れをることをすべからず、譬《たと》へば一条《ひとすじ》の糸にては象を係《つな》ぐこと難けれど多くの糸を集めて縄《なわ》となさば大象をも係ぐを得べきがごとく、兄弟力を併《あわ》せて家を保たんには家も無事長久なるべけれど汝等互ひに私慾を図りて分れ分れとなりなば、一条の糸の弱きがごとくなりて家も衰へ亡ぶべし、この我が訓《おしえ》を能《よ》く記《おぼ》えて決して背《そむ》くことなかれと苦《ねん》ごろに誡《いまし》め諭して現世《このよ》を逝《さ》りければ、兄弟共に父の遺訓に随《したが》ひて互ひに助けあひつつ安楽に日を消《くら》しけり。
さるほどに弟も生長して年頃《としごろ》となりしかば、縁ありしを幸《さいわい》として兄はそのため婦《つま》を迎へ遣《や》りしに、この婦心狭くして良《よ》からぬものなりしゆゑ夫に対《むか》ひて、汝《おんみ》はあたかも奴隷《しもべ》のやうなり、金銀用度も皆兄まかせにて我が所有《もの》といふものもなく、唯《ただ》衣《き》ることと食ふこととに不足なさざるばかりなれば奴隷といふても宜《よ》かるべし、汝|如何《いか》ほど働きたりとて唯この家を富ますのみにて汝の所有《もの》の殖《ふ》ゆるにもあらねば、まことに以《もっ》て楽み薄し、と賢顔《かしこがお》に説きければ、弟はこれより分居の心を生じて、兄に財産《しんだい》を分ちくれむことを求めける。兄は、亡き父上の御遺言をも忘れて汝《そなた》は分居せむとや、さても分別違ひのことを能くも汝はいひ得るよ、と度々《たびたび》弟を誡め諭して敢《あえ》て弟のいふところを許さざりしが、弟の堅く分居せんといひ張りて已《や》まぬに打負けて、遂《つい》に一切の財産《しんだい》を正半分《まふたつ》にし、その一方を弟に与へぬ。
弟夫婦は年少《としわか》きまま無益《むやく》の奢侈《おごり》に財を費《ついや》し、幾時《いくばく》も経ざるに貧しくなりて、兄の許《もと》に合力《ごうり
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