庖犠は伏羲氏なり、網罟を創めたるの人。此段に至りて始めて碁の情を言ふ。虚設予置、以自衛護の八字、下し得て甚だ妙なり。碁の頭初の布局まことに網罟に似たり。
○※[#「※」は「こざとへん+是」、第3水準1−93−60、読みは「てい」、111−15]防周起し、障塞漏決す。夏后治水の勢に似たるなり。
 夏后は禹、洪水を治めたるの人。※[#「※」は「こざとへん+是」、第3水準1−93−60、111−16]防周起は※[#「※」は「虫」+「匚」の中に、「日」の下に「女」、第4水準2−87−63、読みは「えん」、111−16]蜒として勢を成すの状。障塞は己を衛るを云ひ、漏決は患を去るを云ふ。
○一孔|閼《とゞ》むる有るも、壊頽振はず。瓠子汎濫の敗に似たる有り。
 閼は遏に通ず。一孔を遏むるも、敵勢洪大なれば、壊頽して救ふ可からず、大勢を如何ともする能はざるを言ふ。瓠子は即ち瓠子口にして、黄河の水を塞ぐの処、濮陽県の南に在り。漢武帝の時、黄河大に漲り、瓠子を決して、鉅野に注ぎ、淮泗に通じたることあり。我が陣将に敗れんとして、其命縷の如き時、死戦して緊防すれども、敵軍浩※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、112−5]蕩※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、112−5]たるに当つて終に敗るの状、真に此句の如きことあるなり。
○伏を作し詐を設け、囲を突いて横行す。田単の奇。
 兵を伏せて敵を誘ひ、奇を以て勝を制し、重囲を突破して、千里に横行する、痛快無比の状を叙せり。田単は斉の名将。重囲に陥りて屈せず、火牛の謀を以て燕の大軍を破り、日あらずして七十余城を回復せる也。
○厄を要して相《あひ》※[#「※」は「去+りっとう」、112−11]《おびや》かし、地を割かしめて賞を取る。蘇張の姿。
 厄は急厄なり、死生の分るゝ処即ち厄也。厄を要して※[#「※」は「去+りっとう」、112−12]かせば、敵其の死せざらんことを欲して、地を割くを辞せず、是相闘はずして能く奪ふもの也。蘇張は蘇秦張儀、皆兵馬を動かさず、弁舌を以て功を成せるもの。
○参分|勝《まさ》る有つて、而して誅せず。周文の徳。
 参分勝る有るは天下を三分して其二を保有するを言ふ。周の文王、既に天下の実権を有して、而して敢て紂王を誅せず、益※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、112−17]徳を修めて自から固うす。碁の道、善く勝つ者、毎※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、112−17]是の如きの態ある也。
○逡巡儒行し、角を保ち旁に依り、却て自から補続す、敗るゝと雖も亡びず。繆公の智、中庸の方なり。
 逡巡は進まざるの貌、儒行は敢行勇為せざるなり。角を保ちは碁局の角を保つをいひ、旁に依りは碁局の辺旁に依るをいふ。大に覇を争はざるも、是の如くにして自から補続すれば、既に必ず死せざるの勢あるを以て、敗ると雖も亡びざる也。繆公は秦の繆公、西陲に拠有して、漸く其大を成せり。中庸の方は上智英略あらざるものの方策なるを言ふ也。
○上に天地の象有り、次に帝王の治あり、中に五覇の権有り、下に戦国の事有り。其の得失を覧れば、古今|略《ほゞ》備はる。
 碁の道、局道棊布、天地の象あり。次に虚設予置するところ、古帝前王の治の如し。後に互に雄略大志あるところ、五覇の権有りといふべく、終に攻撃戦闘する、戦国の時の事の如し。故に其の得失の状を覧れば、古今の情状略具備すといふ也。

    三 囲棊賦  後漢 馬 融

○略囲棊を観るに、兵を用ゐるに法る。
 馬融は博学能文の大儒にして、盧植、鄭玄皆其の徒なり。
○三尺の局を、戦闘の場と為す。士卒を陳し聚めて、両敵相当る。
 三尺の局、今に比すれば大に過ぐ。又惟大概をいふのみ、深く怪むに足らず。
○怯者は功無く、貪者は先づ亡ぶ。
 怯者は惟守る、守れば則ち足らず。貪者は必ず昧し、昧ければ則ち禍を惹く。二句実に不磨の金言なり。
○先づ四道に拠り、角を保ち傍に依り、辺に縁《よ》り列を遮り、往※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−5]相望む。
 四道は四方と云はんが如し。碁局は四分すべき形勢有り、黒白各先づ四道に拠るをいふ。保角依傍は前に出づ。辺に縁るは字の如し、列を遮るは敵の列を遮る也。往※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−7]相望むは、敵と我と往※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−8]相対して同一形勢を取り、子と子と相望むが如き状あるをいふ。相莅むにはあらず、相望見する也。往※[#「※」は二の字点(踊り字)、第3水1−2−22、114−9]相望むの一句四字、無限の情趣有り。
○離※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−10]たる馬目、連※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−10]たる雁行。※[#「※」は「あしへん+卓」、第4水準2−89−35、読みは「たく」、114−10]度間置し、徘徊中央す。
 離※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−11]連※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−11]の二句、棊子の布置羅列の状をいふ。※[#「※」は「あしへん+卓」、第4水準2−89−35、114−11]度間置は棊子の相接せずして相助くるをいひ、徘徊中央は棊子のたゞ雌伏するのみならず、却て雄飛せんとするをいふ。二句妙致あり。
○死卒を収取し、相迎へ使《し》むる無し。食む当《べ》くして食まざれば、反つて其|殃《わざはひ》を受く。
 当に食む可きを食まざれば、敵の死者復活きんとす。天の与ふるを取らざれば、反つて其殃を受く、この古語を一転して用ゐたり。
○雑乱交錯し、更に相度越す。
 雑乱は旗幟紛※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、114−17]として彼我酣闘する也。交錯は敵反つて吾が後を襲ひ、我反つて敵の後に出づるが如きをいふ也。度越は河を渡り塹を奪ひ、吶喊叱咤して戦ふ也。交相の二字、甚だ力有り、奮戦力闘の状、睹るが如きを覚ゆ。
○規を守る固からざれば、唐突する所と為る。
 陣営は厳密、まさに周亜父細柳の如くなるべし、然らずんば敵の猛將の奇襲突破するところとならん。
○深く入りて地を貪れば、士卒を殺亡す。
 長駆深入すれば、一旦糧竭き変生ずるの時、多く士卒を亡ふをいふ。
○狂攘して相救へば、先後并に没す。
 戦の危機は多し、就中吾が一支軍を救はんとする時、最も危機多し。救ひ得て善ければ勝ち、救ひ得ざれば乱る。狂攘して相救へば、前軍後軍、相倶に覆没す。将軍深謀妙計無かる可からざるの処たり。
○功を計りて相除し、時を以て早く訖る。
 功を計るは戦の応に終るべきを考ふる也、相除するは其の終を令《よ》くすることを為す也。時を以ては其の当に然るべきの時を以て也。早く訖るは智者之を能くす、昧者は終るところを知らず、此を以て其の訖るや彼の訖るところとなつて纔に訖る、悲む可き也。
○事留まれば変生ず、棊を拾ふ疾《すみや》かならんことを欲す。
 事遅留すれば変意外に生ず、故に疑似するところあるは、疾く之を収むるを要するなり。
○営或は窘乏するも、詐をして出でしむる無かれ。
 計営窘蹙困乏するも、卑劣なる奸詐の事を為す勿れと也。奕は小道なりと雖も、君子の此を玩ぶや、おのづから応に君子の態度あるべき也、小人の心術に出づる無かるべき也。
○深く念ひ遠く慮れば、勝乃ち必す可し。
 深念遠慮の四字、一篇を収拾し、勝乃ち必す可しといふ、結束し得て高朗。此篇囲棊の賦中の最古にして最妙なるもの。



底本:「日本の名随筆 別巻1・囲碁」作品社
   1991(平成3)年3月25日第1刷発行
   1992(平成4)年4月20日第5刷発行
底本の親本:「露伴全集 第十九巻」岩波書店
   1951(昭和26)年12月
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2001年7月26日公開
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