囲碁雑考
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)下《ひく》き者は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)費※[#「※」は「ころもへん+韋」、第3水準1−91−80、読みは「い」、106−1]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)愈《いよ/\》屈し、
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 棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといひ、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、夙に棊は尭舜時代に起るとの説ありしを知る。然れども棊の果して尭の手に創造せられしや否やは明らかならず、猶博物志の老子の胡に入つて樗蒲を造り、説文の古は島曹博を作れりといふが如し、此を古伝説と云ふ可きのみ。
 但棊の甚だ早く支那に起りしは疑ふ可からず。論語に博奕といふ者有らずやの語あり、孟子に奕秋の事あり、左伝に太叔文子の君を視る奕棊に如かず、其れ何を以て免れん乎の語あり。特に既に奕秋の如き、技を以て時に鳴る者ありしに依れば、奕の道の当時に発達したるを察知するに足る。仮令尭の手に成らずとするも、奕は少くも周若くは其前に世に出でたるものなること知る可し。
 棊の由つて来ること是の如く久しきを以て、若し棊に関するの文献を索めんには、厖然たる大冊を為すべし。史上に有名なる人物の棊に関する談は、費※[#「※」は「ころもへん+韋」、第3水準1−91−80、読みは「い」、106−1]と来敏との羽檄交※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、106−1]馳する間に於て対局したるが如き、王粲が一局の棊を記して誤らざりし如き、王中郎が棊を座隠といひ、支公が手談と為せる如き、袁※[#「※」は「羌+ム」、第3水準1−90−28、読みは「きょう」、106−3]が棊を囲みながら、殷仲堪の易の義を問ふに答へて、応答流るゝが如くなりし如き、班固に奕旨の論あり、馬融に囲棊の賦あるが如き、晋の曹※[#「※」は「てへん+慮」、第4水準2−13−58、読みは「ちょ」、106−4]、蔡洪、梁の武帝、宣帝に賦あるが如き、魏の応※[#「※」は「玉+昜」、第4水準2−80−85、読みは「応※」で「おうとう」、106−5]に奕勢の言あり、梁の沈約に棊品の序あるが如き、唐より以下に至つては、詩賦の類、数ふるに暇あらざらんとす。然れども梁に棊品あるのみ、猶多く専書有る無し。宋の南渡の時に当つて、晏天章元※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、106−7]棋経を撰し、劉仲甫棋訣を撰す、是より専書漸く出づ。明の王穉登奕史一巻を著はして、奕の史始めて成る。明の嘉靖年間、林応竜適情録二十巻を編す、中に日本僧虚中の伝ふる所の奕譜三百八十四図を載すといふ。其の棋品の高下を知らずと雖も、吾が邦人の棋技の彼に伝はりて確徴を遺すもの、まさに此を以て嚆矢とすべし。予の奕に於ける、局外の人たり、故に聞知する少しと雖も、秋仙遺譜以下、奕譜の世に出づる者蓋し甚だ多からん。吾が邦随唐に往来するより、奕を伝へて此を善くする者また少からず。伝ふるところの談、雑書に散見するもの亦多し。本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。奕譜も亦甚だ多し。然れども其図譜以外の撰述に於ては甚だ寥※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、106−14]、彼と我とを併せて、棋経十三篇に及ぶもの無し。十三篇は蓋し孫子に擬する也。中に名言多きは、前人既にこれを言ふ。棊有つてより以来、言を立て道を論ずる、これに過ぐる者有る無し、目して棋家の孫子と為すも、誰か敢て当らずとせんや。棋は十三篇に尽くといふも可ならん。杜夫子、王積薪の輩、技一桙ノ秀づと雖も、今にして其の観る可き無きを憾む。棊の大概、是の如きなり。
[#以下、行頭に「○」の付く行以外は2字下げ]

     一 棋経妙旨

○古より今に及ぶまで、奕者同局無し。伝に曰く、日※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、107−3]に新なりと。故に宜しく意を用ゐる深くして而して慮を存する精に、以て其の勝負の由るところを求めば、則ち其の未だ至らざる所に至らん。
○棋者正を以て其勢を合し、権を以て其敵を制す。戦未だ合せずして而して算す。戦つて勝つ者は、算を得る多き也。戦つて勝たざる者は算を得る少き也。戦已に合して而して勝負を知らざる者は算無き也。兵法に曰く、算多きは勝ち、算少きは勝たずと。
 多算勝、
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