」は「玉+昜」、第4水準2−80−85、読みは「応※」で「おうとう」、106−5]に奕勢の言あり、梁の沈約に棊品の序あるが如き、唐より以下に至つては、詩賦の類、数ふるに暇あらざらんとす。然れども梁に棊品あるのみ、猶多く専書有る無し。宋の南渡の時に当つて、晏天章元※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、106−7]棋経を撰し、劉仲甫棋訣を撰す、是より専書漸く出づ。明の王穉登奕史一巻を著はして、奕の史始めて成る。明の嘉靖年間、林応竜適情録二十巻を編す、中に日本僧虚中の伝ふる所の奕譜三百八十四図を載すといふ。其の棋品の高下を知らずと雖も、吾が邦人の棋技の彼に伝はりて確徴を遺すもの、まさに此を以て嚆矢とすべし。予の奕に於ける、局外の人たり、故に聞知する少しと雖も、秋仙遺譜以下、奕譜の世に出づる者蓋し甚だ多からん。吾が邦随唐に往来するより、奕を伝へて此を善くする者また少からず。伝ふるところの談、雑書に散見するもの亦多し。本因坊あつて偃武の世に出づるに及び、蔚然一家を為し、太平三百年間、雋異の才、相継で起り、今則ち禹域を圧すといふ。奕譜も亦甚だ多し。然れども其図譜以外の撰述に於ては甚だ寥※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、106−14]、彼と我とを併せて、棋経十三篇に及ぶもの無し。十三篇は蓋し孫子に擬する也。中に名言多きは、前人既にこれを言ふ。棊有つてより以来、言を立て道を論ずる、これに過ぐる者有る無し、目して棋家の孫子と為すも、誰か敢て当らずとせんや。棋は十三篇に尽くといふも可ならん。杜夫子、王積薪の輩、技一桙ノ秀づと雖も、今にして其の観る可き無きを憾む。棊の大概、是の如きなり。
[#以下、行頭に「○」の付く行以外は2字下げ]
一 棋経妙旨
○古より今に及ぶまで、奕者同局無し。伝に曰く、日※[#「※」は二の字点(踊り字)、面区点番号1−2−22、107−3]に新なりと。故に宜しく意を用ゐる深くして而して慮を存する精に、以て其の勝負の由るところを求めば、則ち其の未だ至らざる所に至らん。
○棋者正を以て其勢を合し、権を以て其敵を制す。戦未だ合せずして而して算す。戦つて勝つ者は、算を得る多き也。戦つて勝たざる者は算を得る少き也。戦已に合して而して勝負を知らざる者は算無き也。兵法に曰く、算多きは勝ち、算少きは勝たずと。
多算勝、
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