れると喜ぶなんかんという洒落た助倍《すけべい》の木もある。御辞宜《おじぎ》を能くする卑劣の樹もある。這ッて歩いて十年たてば旅行いたし候と留守宅へ札を残すような行脚の樹もある。動物の中でもなまけた奴は樹に劣ッてる。樹男という野暮は即ちこれさ。元より羊は草にひとしく、海ほおずきは蛙《かわず》と同じサ、動植物無区別論に極ッてるよ。さてそれから螺旋でこの生物を論ずると死生の大法が分るから、いよいよ大発明の大哲学サ、しッかりしてきかないと分らないよ。

一体全体何んでもドンゾコまで分ッてる世界ではない。人間の智慧でドンゾコまで分るものだかどうだか知れないのサ。人間の智慧という奴が無限だか有限だかも人間の智慧では分らないから可笑《おかし》いのだよ。人間の智慧が無限ならば事物を解釈し悉《つく》せるように思うだろうがこれもあやしいのサ。気の毒だけれども誰も人智の有限と無限とを智慧の上から推して断定のできるものはまず無さそうだ。そのくらいの事だからまず動物と植物の区別さえろくにはつかないのサ。それから生物と死物との区別だッてろくに付けることの出来るものはまず無いのサ。生物の最下等の奴になるとなんだかロクに分らないのサ、ダッテ石と人間とは一所《いっしょ》にならないには極ッてるが、最下等生物の形状はあんまり無生活物とちがいはしないのだよ。所を僕のねじねじ論で観念すると能《よ》く分るよ、但しあんまり能く分らない所が少し洒落《しゃれ》ている所だとおもい玉え。僕にいわせると「発生の機は螺線的運動にあり」というのサ。なんでも物の発生するというのは君も知ッている通り「力」の所為サ。その力で逐いやらるるものは則ち先にいうた原則で必らず螺旋的に動くのサ。ソコデこの螺線的運動は力のある限りは続くのだ。何故螺線的運動をするかというに、世界は元来、なんでも力の順逆で成立ッているのだから、東へ向いて進む力と、西に向て進む力、又は上向と下向、というようにいつでも二力の衝突があるが、その二力の衝突調和という事は是非直線的では出来ないものに極ッてるのサ。所で互に曲線的になるのだよ。曲線的ならば衝突してもよいのサ。何故というに、一直線上で同量の二力が衝突する時はともに無となって仕舞《しま》うが、曲線上で衝突する時は中々無になる場合は少い、又直線的で反対の力が互に衝突する時は反射して走しる力の有様が曲線的に反対の力が来
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