》て優しい姉の手に育てられて、然《そ》う為《し》た事のない眉根《まゆね》を寄せた。
 堪へ難《がた》い不快にも、余り眠かつたから手で払ふことも為《せ》ず、顔を横にすると、蠅は辷《すべ》つて、頬の辺《あたり》を下から上へ攀《よ》ぢむと為《す》る。
 這《は》ふ時の脚《あし》には、一種の粘糊《ねばり》が有るから、気《け》だるいのを推《お》して払《はた》くは可《い》いが、悪く掌《てのひら》にでも潰《つぶ》れたら何《ど》うせう。

        下

 其時《そのとき》まで未《ま》だ些《ち》とは張《はり》の有つた目を、半《なか》ば閉ぢて、がつくりと仰向《あおむ》くと、之《これ》がため蠅は頬《ほっ》ぺたを嘗《な》めて居た嘴《くちばし》から糸を引いて、ぶう/\と鳴いて飛上《とびあが》つたが、声も遠くには退《の》かず。
 瞬《またた》く間《ま》に翼を組んで、黒点|先刻《さっき》よりも稍《やや》大きく、二つが一つになつて、衝《つ》と、細眉《ほそまゆ》に留《と》まると、忽《たちま》ちほぐれて、びく/\と、ずり退《の》いたが、入交《いりまじ》つたやうに覚えて、頬《ほお》の上で再び一《ひと》ツ一《ひと》ツに分れた。
 其の都度《つど》ヒヤリとして、針の尖《さき》で突くと思ふばかりの液体を、其処此処《そこここ》滴《したた》らすから、幽《かすか》に覚えて居る種痘《しゅとう》の時を、胸を衝《つ》くが如くに思ひ起して、毒を射されるかと舌が硬《こわ》ばつたのである。
 まあ、何処《どこ》から襲つて来たのであらうと考へると、……其では無いか。
 店へ来る客の中に、過般《いつか》、真桑瓜《まくわうり》を丸ごと齧《かじ》りながら入つた田舎者《いなかもの》と、それから帰りがけに酒反吐《さけへど》をついた紳士があつた。其の事を謂《い》ふ毎《ごと》に、姉は面《おもて》を蔽《おお》ふ習慣《ならい》、大方|其《そ》の者《もの》等《ら》の身体《からだ》から姉の顔を掠《かす》めて、暖簾《のれん》を潜《くぐ》つて、部屋《ここ》まで飛込《とびこ》んで来たのであらう、……其よ、謂《い》ひやうのない厭《いや》な臭気《におい》がするから。
 と思ふ、愈々《いよいよ》胸さきが苦しくなつた。其に今がつくりと仰向《あおむ》いてから、天窓《あたま》も重く、耳もぼつとして、気が遠くなつて行《ゆ》く。――
 焦《じ》れるけれども手はだるし、足はなへたり、身動きも出来ぬ切《せつ》なさ。
 何を!これしきの虫と、苛《いら》つて、恰《あたか》も転《ころが》つて来て、下《した》まぶちの、まつげを侵《おか》さうとするのを、現《うつつ》にも睨《ね》めつける気で、屹《きっ》と瞳《ひとみ》を据《す》ゑると、いかに、普通|見馴《みな》れた者とは大いに異り、一《ひと》ツは鉄《くろがね》よりも固さうな、而《そ》して先の尖《とが》つた奇なる烏帽子《えぼし》を頭《かしら》に頂き、一《ひと》ツは灰色の大紋《だいもん》ついた素袍《すおう》を着て、いづれも虫の顔《つら》でない。紳士と、件《くだん》の田舎漢《いなかもの》で、外道面《げどうづら》と、鬼の面《めん》。――醜悪《しゅうあく》絶類《ぜつるい》である。
「あ、」と云つたが其の声|咽喉《のんど》に沈み、しやにむに起き上らうとする途端に、トンと音が、身体中《からだじゅう》に響き渡つて、胸に留《とま》つた別に他《た》の一|疋《ぴき》の大蠅《おおばえ》が有つた。小児《こども》は粉米《こごめ》の団子《だんご》の固くなつたのが、鎧甲《よろいかぶと》を纏《まと》うて、上に跨《またが》つたやうに考へたのである。
 畳《たたみ》の左右に、はら/\と音するは、我を襲ふ三|疋《びき》の外《ほか》なるが、なほ、十《とお》ばかり。
 其の或者《あるもの》は、高波《たかなみ》のやうに飛び、或者は網《あみ》を投げるやうに駆け、衝《つ》と行き、颯《さっ》と走つて、恣《ほしいまま》に姉の留守の部屋を暴《あら》すので、悩み煩《わずら》ふものは単《ただ》小児《こども》ばかりではない。
 小箪笥《こだんす》の上に飾つた箱の中の京人形は、蠅が一斉にばら/\と打撞《ぶつか》るごとに、硝子越《がらすごし》ながら、其の鈴のやうな美しい目を塞《ふさ》いだ。……柱かけの花活《はないけ》にしをらしく咲いた姫百合《ひめゆり》は、羽の生えた蛆《うじ》が来て、こびりつく毎《ごと》に、懈《た》ゆげにも、あはれ、花片《はなびら》ををのゝかして、毛《け》一筋《ひとすじ》動かす風《かぜ》もないのに、弱々《よわよわ》と頭《かぶり》を掉《ふ》つた。弟は早《は》や絶入《たえい》るばかり。
 時に、壁の蔭《かげ》の、昼も薄暗い、香《こう》の薫《かおり》のする尊い御厨子《みずし》の中に、晃然《きらり》と輝いたのは、妙見宮《みょうけんぐう》の御手《おん
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