にら》んで、不服らしくずんずん通った。
が、部屋へ入ると、廊下を背後《うしろ》にして、長火鉢を前に、客を待つ気構えの、優しく白い手を、しなやかに鉄瓶の蔓《つる》に掛けて、見るとも見ないともなく、ト絵本の読みさしを膝に置いて、膚《はだ》薄そうな縞縮緬《しまちりめん》。撫肩《なでがた》の懐手、すらりと襟を辷《すべ》らした、紅《くれない》の襦袢《じゅばん》の袖に片手を包んだ頤《おとがい》深く、清らか耳許《みみもと》すっきりと、湯上りの紅絹《もみ》の糠袋《ぬかぶくろ》を皚歯《しらは》に噛《か》んだ趣して、頬も白々と差俯向《さしうつむ》いた、黒繻子《くろじゅす》冷たき雪なす頸《うなじ》、これが白露かと、一目見ると、後姿でゾッとする。――
「河、原、と書くんだ、河原千平《かわらせんべい》。」
やがて、帳面を持って出直した時、若いものは、軸で、ちょっと耳を掻《か》いて、へへへ、と笑った。
「貴客《あなた》、ほんとの名を聞かして下さいましな。」
犬を料理そうな卓子台《ちゃぶだい》の陰ながら、膝に置かれた手は白し、凝《じっ》と視《み》られた瞳は濃し……
思わず情《なさけ》が五体に響いて、その時言った。
「進藤延一……造兵……技師だ。」
七
「こういう事をお話し申した処で、ほんとにはなさりますまい。第一そんな安店に、容色《きりょう》と云い気質《きだて》と云い、名も白露で果敢《はか》ないが、色の白い、美しい婦《おんな》が居ると云っては、それからが嘘らしく聞えるでございましょう。
その上、癡言《たわこと》を吐《つ》け、とお叱りを受けようと思いますのは、娼妓《じょろう》でいて、まるで、その婦《おんな》が素地《きじ》の処女《むすめ》らしいのでございます。ええ、他の仁にはまずとにかく、私《てまえ》だけにはまったくでございました。
なお怪しいでございましょう……分けて、旦那方は御職掌で、人一倍、疑り深くいらっしゃいますから。」――
一言ずつ、呼気《いき》を吐《つ》くと、骨だらけな胸がびくびく動く、そこへ節くれだった、爪の黒い掌《てのひら》をがばと当てて、上下《うえした》に、調子を取って、声を揉出《もみだ》す。
佐内坂の崖下、大溝《おおどぶ》通りを折込《おれこ》んだ細路地の裏長屋、棟割《むねわり》で四軒だちの尖端《とっぱずれ》で……崖うらの畝々坂《うねうねざか》が引窓から雪頽《なだ》れ込みそうな掘立一室《ほったてひとま》。何にも無い、畳の摺剥《すりむ》けたのがじめじめと、蒸れ湿ったその斑《まだら》が、陰と明るみに、黄色に鼠に、雑多の虫螻《むしけら》の湧《わ》いて出た形に見える。葉鉄《ブリキ》落しの灰の濡れた箱火鉢の縁《へり》に、じりじりと燃える陰気な蝋燭を、舌のようになめらかして、しょんぼりと蒼《あお》ざめた、髪の毛の蓬《おどろ》なのが、この小屋の……ぬしと言いたい、墓から出た状《さま》の進藤延一。
がっしとまた胸を絞って、
「でありますが、余りお疑い深いのも罪なものでございます。」
と、もの言う都度、肩から暗くなって、蝋燭の灯に目ばかりが希代に光る。
「疑うのが職業だって、そんな、お前《めえ》、狐の性《しょう》じゃあるまいし、第一、僕はそのね、何も本職というわけじゃないんだよ。」
となぜか弱い音《ね》を吹いた……差向いをずり下《さが》って、割膝で畏《かしこま》った半纏着の欣八刑事、風受《かざう》けの可《よ》い勢《いきおい》に乗じて、土蜘蛛《つちぐも》の穴へ深入《ふかいり》に及んだ列卒《せこ》の形で、肩ばかり聳《そび》やかして弱身を見せじと、擬勢は示すが、川柳に曰く、鏝塗《こてぬ》りの形に動く雲の峰で、蝋燭の影に蟠《わだかま》る魔物の目から、身体《からだ》を遮りたそうに、下塗の本体、しきりに手を振る。……
「可《い》いかね、ちょいと岡引《おかっぴき》ッて、身軽な、小意気な処を勤めるんだ。このお前《めえ》、しっきりなし火沙汰の中さ。お前、焼跡で引火奴《ほくち》を捜すような、変な事をするから、一つ素引《しょぴ》いてみたまでのもんさね。直ぐにも打縛《ふんじば》りでもするように、お前、真剣《しんけん》になって、明白《あかり》を立てる立てるッて言わあ。勿論、何だ、御用だなんて威《おど》かしたには威しましたさ、そりゃ発奮《はずみ》というもんだ。
明白《あかし》を立てます立てますッて、ここまで連れて来るから、途中で小用も出来ずさね、早い話が。
隣家《となり》は空屋だと云うし、……」
と、頬被《ほおかぶり》のままで、後を見た、肩を引いて、
「一軒隣は按摩《あんま》だと云うじゃねえか。取附《とッつ》きの相角がおでん屋だッて、かッと飲んだように一景気附いたと思や、夫婦で夜なしに出て、留守は小児《こども》の番をする下性《げしょう》の悪い
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