か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。
「大木戸から向って左側でございます、へい。」
「さては電車路を突切《つっき》ったな。そのまま引返せば可《い》いものを、何の気で渡った知らん。」
と真《しん》になって打傾く。
「車夫《くるまや》、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」
「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向《うつむ》く。
「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯《じょうだん》じゃない。」
と半分|呟《つぶや》いて、石に置いた看板を、ト乗掛《のっかか》って、ひょいと取る。
鼻の前《さき》を、その燈《ひ》が、暗がりにスーッと上《あが》ると、ハッ嚔《くさめ》、酔漢《よっぱらい》は、細い箍《たが》の嵌《はま》った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向《あおむ》けに目を明けた。
「ああ、待ったり。」
「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可《いけ》ません。」
「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」
「燐寸《マッチ》を上げまさあね。」
「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫《の》むと極《きま》ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂《ひっさ》いて、行燈《あんどん》の火を燃して取って、長羅宇《ながらう》でつけてくれるか。」
と中腰に立って、煙管を突込《つっこ》む、雁首《がんくび》が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。
「消した、お前さん。」
内証《ないしょ》で舌打。
霜夜に芬《ぷん》と香が立って、薄い煙が濛《もう》と立つ。
「車夫《くるまや》。」
「何ですえ。」
「……宿《しゅく》に、桔梗屋《ききょうや》[#ルビの「ききょうや」は底本では「ききやうや」]と云うのがあるかい、――どこだね。」
「ですから、お供を願いたいんで、へい、直《じ》きそこだって旦那、御冥加《ごみようが》だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切《やりき》れませんや。」とわざとらしく、がちがち。
「雲助め。」
と笑いながら、
「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行《ゆ》く。……」
五
さて酔漢《よっぱらい》は、山鳥の巣に騒見《ぞめ》く、梟《ふくろう》という形で、も一度線路を渡越《わたりこ》した、宿《しゅく》の中ほどを格子摺《こうしず》れに伸《の》しながら、染色《そめいろ》も同じ、桔梗屋、と描《か》いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈《でんき》が映る、暖簾《のれん》をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂《ひさし》の霜も薄化粧、夜半《よわ》の凄《すご》さも狐火《きつねび》に溶けて、情《なさけ》の露となりやせん。
「若い衆《しゅ》、」
「らっしゃい!」
「遊ぶぜ。」
「難有《ありがと》う様で、へい、」と前掛《まえかけ》の腰を屈《かが》める、揉手《もみで》の肱《ひじ》に、ピンと刎《は》ねた、博多帯《はかたおび》の結目《むすびめ》は、赤坂|奴《やっこ》の髯《ひげ》と見た。
「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」
「ちゃんとな、」
と唐桟《とうざん》の胸を劃《しき》って、
「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効《なじみがい》でございます、へへへ、お上んなはるよ。」
帳場から、
「お客様ア。」
まんざらでない跫音《あしおと》で、トントンと踏む梯子段《はしごだん》。
「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津《かいず》を掬《しゃく》う、溌剌《はつらつ》とした声なら可《い》いが、海綿に染む泡波《あぶく》のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋《やりてべや》のお媼《ば》さんというのが、茶渋に蕎麦切《そばきり》を搦《から》ませた、遣放《やりッぱな》しな立膝で、お下りを這曳《しょび》いたらしい、さめた饂飩《うどん》を、くじゃくじゃと啜《すす》る処――
横手の衝立《ついたて》が稲塚《いなづか》で、火鉢の茶釜《ちゃがま》は竹の子笠、と見ると暖麺《ぬくめん》蚯蚓《みみず》のごとし。惟《おもんみ》れば嘴《くちばし》の尖《とが》った白面の狐《コンコン》が、古蓑《ふるみの》を裲襠《うちかけ》で、尻尾の褄《つま》を取って顕《あらわ》れそう。
時しも颯《さっ》と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰《あられ》の音。
勢《いきおい》辟易《へきえき》せざるを得ずで、客人ぎょっとした体《てい》で、足が窘《すく》んで、そのまま欄干に凭懸《よりかか》ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。
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