敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆《そその》かして口説いた。北辰妙見菩薩《ほくしんみょうけんぼさつ》を拝んで、客殿へ退《ひ》く間《ま》であったが。
 水をたっぷりと注《さ》して、ちょっと口で吸って、莟《つぼみ》の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂《あつら》えたようである。
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
 と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫《わ》びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
 と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺《しのぶずり》ですよ。」
 その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細《しさい》ない。」
「はい、……どうぞ。」
 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
 前刻《さっき》から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜《ひそか》に悪心の萌《きざ》したのが、この時、色も、慾《よく》も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
「へい。お待遠でござりました。」
 片手に蝋燭《ろうそく》を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏《くり》から出た。
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜《くわ》えるといいますから。」
 お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、危気《あぶなげ》はござりましねえ、嘴太烏《ふと》も、嘴細烏《ほそ》も、千羽ヶ淵の森へ行《い》んで寝ました。」
 大城下は、目の下に、町の燈《ひ》は、柳にともれ、川に流るる。磴《いしだん》を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五|燈《しょく》はまだ来ない。
 あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
 お米が膝をついて、手を合せ
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