思議に数えられた、幻の音曲である。
 言った方も戯《たわむれ》に、聞く女《ひと》も串戯《じょうだん》らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説《いいつたえ》を、夢のように思出した。
 興ある事かな。
 日は永し。
 今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙《ひま》な医師《いしゃ》と一般、仕事に悩んで持余《もてあま》した身体《からだ》なり、電車はいつでも乗れる。
 となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中《うち》にも、囃子の音が、間近に、判然《はっきり》したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
 その上、世を避けた仙人が碁《ご》を打つ響きでもなく、薄隠《すすきがく》れの女郎花《おみなえし》に露の音信《おとず》るる声でもない……音色《ねいろ》こそ違うが、見世《みせ》ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
 向って日南《ひなた》の、背後《うしろ》は水で、思いがけず一本の菖蒲《あやめ》が町に咲いた、と見た。……その美しい女《ひと》の影は、分れた背中にひやひやと染《し》む。……
 と、チャンチキ、チャンチキ、嘲《あざ》けるがごとくに囃す。……
 がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行《ある》き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。

       三

 片側はどす黒い、水の淀《よど》んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵《むしろ》やら、炭やら、薪《まき》やら、その中を蛇が這《は》うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
 あの鼠が太鼓をたたいて、鼬《いたち》が笛を吹くのかと思った。……人通り全然《まるで》なし。
 片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合《つなぎあ》わせた小家《こいえ》続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉《からす》も居《お》らなければ犬も居らぬ。縄暖簾《なわのれん》も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽|歩行《ある》いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
 太陽《ひ》はたけなわに白い。
 颯《さっ》と、のんびりした雲から落《おち》かかって、目に真蒼《まっさお》に映った
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