だけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵《やれむしろ》を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪《あやし》い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
 取巻いた小児《こども》の上を、鮒《ふな》、鯰《なまず》、黒い頭、緋鯉《ひごい》と見たのは赤い切《きれ》の結綿仮髪《ゆいわたかつら》で、幕の藤の花の末を煽《あお》って、泳ぐように視《なが》められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件《くだんのごとし》、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
 松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服《きもの》に、黒い帯した、円い臀《しり》が、蹠《かかと》をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ歪《ゆが》んだが。
 半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺《ひとどよめき》。
 中に、目の鋭い屑屋《くずや》が一人、箸《はし》と籠《かご》を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻《ねめま》わす。
 もう一人、袷《あわせ》の引解《ひっと》きらしい、汚れた縞《しま》の単衣《ひとえ》ものに、綟《よ》綟れの三尺で、頬被《ほおかぶ》りした、ずんぐり肥《ふと》った赤ら顔の兄哥《あにい》が一人、のっそり腕組をして交《まじ》る……
 二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘《ちび》が、横ちょ、と猪首《いくび》に小児《こども》を背負《しょ》って、唄も唄わず、肩、背を揺《ゆす》る。他は皆、茄子《なすび》の蔓《つる》に蛙の子。
 楽屋――その塀の中《うち》で、またカチカチと鳴った。
 処へ、通《とおり》から、ばらばらと駈《か》けて来た、別に二三人の小児を先に、奴《やっこ》を振らせた趣で、や! あの美しい女《ひと》と、中折《なかおれ》の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降《あまくだ》ったように見えた。
 ここだ、この音だ――と云ったその紳士の言《ことば》を聞いた、松崎は、やっぱり渠等《かれら》も囃子の音に誘われて、男女《なんにょ》のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻《さっ
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