十三、比野《ひの》の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤《つとめ》を引いて引籠《ひきこも》つて居たのが、此の日|修法《しゅほう》ほどき、満願の御二方《おふたかた》の心祝《こころいわい》の座に列するため、久しぶりで髪容《かみかたち》を整へたのである。畳廊下《たたみろうか》に影がさして、艶麗《えんれい》に、然《しか》も軟々《なよなよ》と、姿は黒髪とともに撓《しな》つて見える。
 背後《うしろ》に……たとへば白菊《しらぎく》と称《とな》ふる御厨子《みずし》の裡《うち》から、天女《てんにょ》の抜出《ぬけい》でたありさまなのは、貴《あて》に気高い御簾中である。
 作者は、委《くわ》しく知らないが、此《これ》は事実ださうである。他《た》に女《め》の童《わらわ》の影もない。比野卿の御館《みたち》の裡《うち》に、此の時卿を迎ふるのは、唯《ただ》此の方《かた》たちのみであつた。
 また、修法の間《ま》から、脇廊下《わきろうか》を此方《こなた》へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀《はかせ》を持つ扈従《こしょう》もなしに、唯《ただ》一人なのである。御家風《ごかふう》か質素か知らない。此の頃の恁《こ》うした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯《だいみょう》の大奥と表《おもて》の容体《ようだい》に比較して見るが可《よ》い。
 で、藤の局《つぼね》の手で、隔てのお襖《ふすま》をスツと開《あ》ける。……其処《そこ》で、卿と御簾中《ごれんちゅう》が、一所《いっしょ》にお奥へと云ふ寸法であつた。
 傍《かたわら》とも云ふまい。片あかりして、冷《つめた》く薄暗い、其の襖際《ふすまぎわ》から、氷のやうな抜刀《ぬきみ》を提げて、ぬつと出た、身の丈《たけ》抜群な男がある。唯《と》、間《なか》二三|尺《じゃく》隔てたばかりで、ハタと藤の局と面《おもて》を合せた。
 局が、其の時、はつと袖屏風《そでびょうぶ》して、間《なか》を遮《さえぎ》ると斉《ひと》しく、御簾中の姿は、すつと背後向《うしろむき》に成つた――丈《たけ》なす黒髪が、緋《ひ》の裳《もすそ》に揺《ゆら》いだが、幽《かすか》に、雪よりも白き御横顔《おんよこがお》の気高さが、振向《ふりむ》かれたと思ふと、月影に虹《にじ》の影の薄れ行く趣《おもむき》に、廊下を衝《つつ》と引返《ひきかえ》さる。
「一《ひと》まづ。」
 と、局が声を掛けて、
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