湖《うみ》に墜《お》ちて、溺《おぼ》れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
 と事もなげに笑つて、
「いや、些《ち》と身に汚《けが》れがあつて、不精《ぶしょう》に、猫の面洗《つらあら》ひと遣《や》つた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ明朝《あした》は天気だ。まあ休め。」
 と法衣《ころも》の袖《そで》を通して言ふ。……吐《は》く呼吸《いき》の、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個《ふたつ》とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面《おもて》に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
 羽黒の小法師《こほうし》、秋葉の行者《ぎょうじゃ》、二個は疑《うたがい》もなく、魔界の一党、狗賓《ぐひん》の類属。東海、奥州、ともに名代《なだい》の天狗《てんぐ》であつた。

        三

「成程《なるほど》、成程、……御坊《ごぼう》の方は武士《さむらい》であつた。」
 行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
「然《さ》れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫《ひきさろ》うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館《おんやかた》へ、然《しか》も、念入りに、十二|間《けん》のお廊下へドタリと遣《や》つた。」
「おゝ御館《おやかた》では、藤の局《つぼね》が、我折《がお》れ、かよわい、女性《にょしょう》の御身《おんみ》。剰《あまつさ》へ唯《ただ》一人にて、すつきりとしたすゞしき取計《とりはから》ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
 と云つた山伏《やまぶし》は、真赤な鼻を撮《つま》むやうに、つるりと撫《な》でて、
「最早知つたか。」
「洛中《らくちゅう》の是沙汰《これさた》。関東一円、奥州まで、愚僧が一山《いっさん》へも立処《たちどころ》に響いた。いづれも、京方《きょうがた》の御為《おんため》に大慶《たいけい》に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷《すばや》い。」
「やあ、如何《いかが》な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失《あやまり》。……愚僧、早合点《はやがてん》の先ばしりで、思ひ懸《が》けない隙入《ひまいり》をした。御身《おみ》と同然に、愚僧|等《ら》御司配《ごしはい》の命令《おおせ》を蒙《こうむ》り、京都と同じ日、先《ま》づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住《せんじゅ》の大橋《おおはし》、
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