と、手巾《ハンケチ》ではっと口を押えて、自分でも可笑《おかし》かったか、くすくす笑う。
「町名、町名、結構。」
 一帆は町名と聞違えた。
「いいえ、提灯なの。」
「へい、提灯町。」
 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
 また笑って、
「そうじゃありません。私の家《うち》は提灯なんです。」
「どこの? 提灯?」
「観音様の階段の上の、あの、大《おおき》な提灯の中が私の家《うち》です。」
「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
「お名は。」
「私? 名ですか。娘……」
「娘子《むすめこ》さん。――成程違いない、で、お年紀《とし》は?」
「年は、婆さん。」
「年は婆さん、お名は娘、住所《ところ》は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 と訊《き》いた。
 後に舟崎が語って言うよう――
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜《くやし》いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢《としごろ》の娘に向って、お商売? はちと思切った。
 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣《さつ》がある。
 その時、ちと更《あらた》まるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席《よせ》でも一向|入《い》りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児《あか》さんにおなり遊ばせ。」
 思懸《おもいが》けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、厭《いや》ですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟《おおげさ》に開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝を支《つ》いて、蒲団《ふとん》をずらして、すらりと向うへ、……扉《ひらき》の前。――此方《こなた》に劣らず杯《さかずき》は重ねたのに、衣《きぬ》の薫《かおり》も冷《ひや》りとした。
 扇子を抜いて、畳に支《つ》いて、頭《つむり》を下げたが、がっくり、と低頭《うなだ》れたように悄《しお》れて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……前《さき》へ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠《くちごも》って、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、籠《かご》の白い花を忘れまい。
 すっと抜くと、掌《てのひら》に捧げて出て、そのまま、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一|舳《そう》、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃《しき》って浮く。
 空は晴れて、霞《かすみ》が渡って、黄金のような半輪の月が、薄《うっす》りと、淡い紫の羅《うすもの》の樹立《こだち》の影を、星を鏤《ちりば》めた大松明《おおたいまつ》のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波《なごり》は敷妙《しきたえ》の銀の波。
 ト瞻《みつ》めながら、
「は、」と声が懸《かか》る、袖を絞って、袂《たもと》を肩へ、脇明《わきあけ》白き花|一片《ひとひら》、手を辷《すべ》ったか、と思うと、非《あら》ず、緑の蔓《つる》に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。
 ただ一攫《ひとつま》みなりけるが、船の中に落つると斉《ひと》しく、礫《つぶて》打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽《は》のごとく舳《へさき》にまで咲きこぼれる。
 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透《すみとお》る水に映って、ちらちらと揺《ゆら》めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大《おおき》さ、やがて扇ばかりな真白《まっしろ》な一羽の胡蝶《こちょう》、ふわふわと船の上に顕《あら》われて、つかず、離れず、豌豆《えんどう》の花に舞う。
 やがて蝶が番《つがい》になった。
 内は寂然《ひっそり》とした。
 芸者の姿は枝折戸《しおりど》を伸上った。池を取廻《とりま》わした廊下には、欄干越《てすりごし》に、燈籠《とうろう》の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。
 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴《ともえ》に乱れ、卍《まんじ》と飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後《うしろ》に肱掛窓《ひじかけまど》に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱《ひじ》をついて、呆気《あっけ》に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背《そむ》いて、胸越しに半面を蔽《おお》うて差俯向《さしうつむ》く時、すらりと投げた裳《もすそ》を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄《つま》を寄せたのである。

 フト現《うつつ》から覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」
[#地
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