信ずるなり。
 寒さは寒し恐しさにがた/\震《ぶるひ》[#「がた/\震《ぶるひ》」は底本では「がた/\震 ぶるひ」]少しも止《や》まず、遂《つひ》に東雲《しのゝめ》まで立竦《たちすく》みつ、四辺《あたり》のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸《ふしど》には藻脱《もぬけ》の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜《そのよ》の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。
 然《さ》らでも前日の竹藪以来、怖気《おぢけ》の附《つ》きたる我なるに、昨夜《さくや》の怪異に胆《きも》を消し、もはや斯塾《しじゆく》に堪《たま》らずなりぬ。其日の中《うち》に逃帰《にげかへ》らむかと已《すで》に心を決せしが、さりとては余り本意《ほい》無し、今夜《こよひ》一夜《ひとよ》辛抱《しんばう》して、もし再び昨夜《ゆうべ》の如く婦人の来《きた》ることもあらば度胸を据《す》ゑて其《そ》の容貌と其《その》姿態《したい》とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交《かは》し試むべきなり。よしや執着の留《とゞま》りて怨《うらみ》を後世《こうせい》に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人《なんぴと》も爾《しか》く英雄になるぞかし。逢魔《あふま》が時《とき》の薄暗がりより漸次《しだい》に元気衰へつ、夜《よ》に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増《まさ》りぬ。漫《そゞろ》に昨夜《さくや》を憶起《おもひおこ》して、転《うた》た恐怖の念に堪《た》へず、斯くと知らば日の中《うち》に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。
 只管《ひたすら》洋灯《ランプ》を明《あか》くする、これせめてもの附元気《つけげんき》、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯《ただ》一人《ひとり》更け行く鐘を数へつゝ「早《はや》一時か」と呟く時、陰々として響き来《きた》る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回《めぐ》り襖を潜《くゞ》り、壁に浸入《しみい》る如くなり。
 南無三《なむさん》膝を立直《たてなほ》し、立ちもやらず坐りも果てで、魂《たましひ》宙に浮く処《ところ》に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田《やまだ》山田」と我が名を呼ぶ、※[#「口+何」、第4水準2−3−88]呀《あなや》と頭《かうべ》を掉傾《ふりか
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