、四つになる女の児と、五つの男の児と、廂合《ひあわい》の星の影に立つて居た。
 顔を見るなり、女房が、
「父《おとっ》さんは帰つたかい。」
 と笑顔して、いそ/\して、優しく云つた。――何が什《ど》うしても、「帰つた。」と言はせるやうにして聞いたのである。
 不可《いけな》い。……
「うゝん、帰りやしない。」
「帰らないわ。」
 と女の児が拗ねでもしたやうに言つた。
 男の児が袖を引いて
「父《おとっ》さんは帰らないけれどね、いつものね、鰻《うなぎ》が居るんだよ。」
「えゝ、え。」
「大きな長い、お鰻よ。」
「こんなだぜ、おつかあ。」
「あれ、およし、魚尺《うおしゃく》は取るもんぢやない――何処にさ……そして?」
 と云ふ、胸の滝は切れ、唾が乾いた。
「台所の手桶に居る。」
「誰が持つて来たの、――魚屋さん?……え、坊や。」
「うゝん、誰だか知らない。手桶の中に充満《いっぱい》になつて、のたくつてるから、それだから、遁《に》げると不可《いけな》いから蓋《ふた》をしたんだ。」
「あの、二人で石をのつけたの、……お石塔《せきとう》のやうな。」
「何だねえ、まあ、お前たちは……」
 と叱る女房の声は震へた。
「行つてお見よ。」
「お見なちやいよ。」
「あゝ、見るから、見るからね、さあ一所《いっしょ》においで。」
「私《わたい》たちは、父《おとっ》さんを待つてるよ。」
「出て見まちよう。」
 と手を引合つて、もつれるやうに、ばら/″\寺の門へ駈けながら、卵塔場《らんとうば》を、灯《ともしび》の夜の影に揃つて、かあいゝ顔で振返つて、
「おつかあ、鰻を見ても触つちや不可《いけな》いよ。」
「触るとなくなりますよ。」
 と云ひすてに走つて出た。
 女房は暗がりの路次に足を引《ひか》れ、穴へ掴込まれるやうに、頸から、肩から、ちり毛もと、ぞッと氷るばかり寒くなつた。
 あかりのついた、お附合の隣の窓から、岩さんの安否を聞かうとしでもしたのであらう。格子をあけた婦《おんな》があつたが、何にも女房には聞こえない。……
 肩を固く、足がふるへて、その左側の家《うち》の水口へ。……
 ……行くと、腰障子《こししょうじ》の、すぐ中で、ばちや/\、ばちやり、ばちや/\と音がする。……
 手もしびれたか、きゆつと軌む……水口を開けると、茶の間も、框《かまち》も、だゝつ広く、大きな穴を四角に並べて陰気《いんき》である。引窓に射す、何の影か、薄あかりに一目見ると、唇がひッつゝた。……何《ど》うして小児《こども》の手で、と疑ふばかり、大きな沢庵石が手桶の上に、づしんと乗つて、あだ黒く、一つくびれて、ぼうと浮いて、可厭《いや》なものゝ形に見えた。
 くわッと逆上《のぼ》せて、小腕《こがいな》に引《ひき》ずり退《の》けると、水を刎《は》ねて、ばちや/\と鳴つた。
 もの音もきこえない。
 蓋を向うへはづすと、水も溢れるまで、手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が一條《ひとすじ》、唯一條であつた。のろ/\と畝《うね》つて、尖つた頭を恁《こ》うあげて、女房の蒼白い顔を熟《じっ》と視た。――と言ふのである。

  ◇

 山東京伝《さんとうきょうでん》が小説を書く時には、寝る事も食事をする事も忘れて熱心に書き続けたものだが、新しい小説の構造が頭に浮んでくると、真夜中にでも飛び起きて机に向つた。
 そして興が深くなつて行くと、便所へ行く間も惜しいので、便器を机の傍《そば》に置いてゐたといふ事である。



底本:「集成 日本の釣り文学 第九巻 釣り話 魚話」作品社
   1996(平成8)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「サンデー毎日」毎日新聞社
   1924(大正13)年10月発行
初出:「新小説」春陽堂
   1911(明治44)年
※初出時の表題は、「鰻」です。
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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