《こ》めて、お香の肩を掴《つか》み動かし、
「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失《う》せない。そのためにおれはもうすべての事業を打ち棄《す》てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりおまえの母親が、おれの生涯《しょうがい》の幸福と、希望とをみな奪ったものだ。おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃《ねたば》を合わせるじゃあない、恋に失望したもののその苦痛《くるしみ》というものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要《い》らざる生命《いのち》をながらえたが、慕い合って望みが合《かの》うた、おまえの両親に対しては、どうしてもその味を知らせよう手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちにはおれが仕方を考えて思い知らせてやろうものを、ふしあわせだか、しあわせだか、二人ともなくなって、残ったのはおまえばかり。親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代|祟《たた》る執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人《おもいもの》が、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとい世界の金満《かねもち》におれをしてくれるといったって、とても謂《い》うこたあ肯《き》かれない。覚悟しろ! 所詮《しょせん》だめだ。や、こいつ、耳に蓋《ふた》をしているな」
 眼《め》にいっぱいの涙を湛《たた》えて、お香はわなわなふるえながら、両|袖《そで》を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、
「あれ!」と背《そむ》くる耳に口、
「どうだ、解《わか》ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛《くるしみ》をよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる談話《はなし》をしたり、あらゆることをして苛《いじ》めてやる」
「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」
 とおぼえず、声を放ちたり。
 少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。渠《かれ》はそこを通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退《さが》りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次《ぞうじ》の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話《はなし》を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾《とく》に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回《うかい》し、あるいは疾走し、緩歩し、立停《りゅうてい》するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑《いさぎよ》しとせざりしところなり。

       六

 老人はなお女の耳を捉《とら》えて放たず、負われ懸くるがごとくにして歩行《ある》きながら、
「お香、こうは謂うもののな、おれはおまえが憎かあない、死んだ母親にそっくりでかわいくってならないのだ。憎いやつなら何もおれが仕返しをする価値《ねうち》はないのよ。だからな、食うことも衣《き》ることも、なんでもおまえの好きなとおり、おりゃ衣ないでもおまえには衣せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。おれももう取る年だし、死んだあとでと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」
 恐ろしき声をもて老人が語れるその最後の言《ことば》を聞くと斉《ひと》しく、お香はもはや忍びかねけん、力を極《きわ》めて老人が押えたる肩を振り放し、ばたばたと駈け出《い》だして、あわやと見る間に堀端《ほりばた》の土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる! と老人は狼狽《うろた》えて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜を辷《すべ》りて、水にざんぶと落ち込みたり。
 このとき疾《はや》く救護のために一躍して馳《は》せ来たれる、八田巡査を見るよりも、
「義さん」と呼吸《いき》せわしく、お香は一声呼び懸《か》けて、巡査の胸に額《ひたい》を埋《うず》めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりに縋《すが》り着きぬ。蔦《つた》をその身に絡《から》めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳《かざ》し、水をきっと瞰下《みお》ろしたる、ときに寒冷|謂《い》うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈《はげ》しき泡《あわ》の吹き出ずるは老夫の沈める処《ところ》と覚しく、薄氷は亀裂《きれつ》しおれり。
 八田巡査はこれを見て、躊躇《ちゅうちょ》するもの一|秒時《セコンド》、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪《はなかんざし》の、徽章《きしょう》のごとくわが胸に懸《か》かれるが、ゆらぐばかりに動悸《どうき》烈《はげ》しき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、
「お退《ど》き」
「え、どうするの」
 とお香は下より巡査の顔を見上げたり。
「助けてやる」
「伯父さんを?」
「伯父でなくってだれが落ちた」
「でも、あなた」
 巡査は儼然《げんぜん》として、
「職務だ」
「だってあなた」
 巡査はひややかに、「職掌だ」
 お香はにわかに心着き、またさらに蒼《あお》くなりて、
「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」
「職掌だ」
「それだって」
「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺《おやじ》だが、職務だ! 断念《あきらめ》ろ」
 と突きやる手に喰《く》い附《つ》くばかり、
「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀《どべい》石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。
 八田巡査は、声をはげまし、
「放さんか!」
 決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯《とっさ》に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田は警官として、社会より荷《にな》える負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとして、氷点の冷、水凍る夜半《よわ》に泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああはたして仁なりや、しかも一人の渠《かれ》が残忍|苛酷《かこく》にして、恕《じょ》すべき老車夫を懲罰し、憐《あわれ》むべき母と子を厳責したりし尽瘁《じんすい》を、讃歎《さんたん》するもの無きはいかん。
[#地付き](明治二十八年四月「文芸倶楽部」)



底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「文芸倶楽部」
   1895(明治28)年4月
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年9月10日公開
2005年12月4日修正
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