、この村里は、人も、馬も、水の底へ沈んでしまう……
蟹五郎 何が、何が、第一俺が住居《すまい》も広うなる……村が泥沼になるを、何が遠慮だ。勧めろ、勧めろ。
鯉七 忘れたか、鐘《つりがね》がここにある。……御先祖以来、人間との堅い約束、夜昼三度、打つ鐘を、彼奴等《あいつら》が忘れぬ中《うち》は、村は滅びぬ天地の誓盟《ちかい》。姫様《ひいさま》にも随意《まま》にならぬ。さればこそ、御鬱懐《ごうっかい》、その御ふびんさ、おいとしさを忘れたの。
蟹五郎 南無三宝《なむさんぽう》、堂の下で誓を忘れて、鐘《つりがね》の影を踏もうとした。が、山も田圃《たんぼ》も晃々《きらきら》とした月夜だ。まだまだしめった灰も降らぬとなると、俺も沢を出て、山の池、御殿の長屋へ行《ゆ》かずばなるまい。同道を頼むぞ、鯉。
鯉七 むむ、その儀は、ぱくりと合点《のみこ》んだ。かわりにはの、道が寂しい……里へは、きこう同道せい。
蟹五郎 帰途《かえり》はお池へ伴侶《みちづれ》だ。
鯉七 月の畷《なわて》を、唄うて行《ゆ》こうよ。
蟹五郎 何と唄う?
鯉七 ==山を川にしょう==と唄おうよ。
蟹五郎 面白い。
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と同音に、鯉はふらふらと袖を動かし、蟹は、ぱッぱッと煙《けむ》を吹いて、==山を川にしょう、山を川にしょう==と同音に唄い行く。行掛けて淀《よど》み、行途《むこう》を望む。
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鯉七 待て、見馴《みな》れぬものが、何やら田の畝《あぜ》を伝うて来る。
蟹五郎 かッかッ、怪しいものだ。小蔭《こがく》れて様子を見んかい。
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両個、姿を隠す。
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百合 (人形を抱き、媚《なまめ》かしき風情にて戸を開き戸外《こがい》に出づ。)夜の長い事、長い事……何の夏が明易《あけやす》かろう。坊やも寝られないねえ、――お月様幾つ、お十三、七つ――今も誰やら唄うて通ったのをお聞きかい、――山を川にしょ――ああ、この頃では村の人が、山を川にもしたかろう、お気の毒だわねえ。……まあ、良い月夜、峰の草も見えるような。晃さん、お客様の影も、あの、松のあたりに見えようも知れないから、鐘堂《かねつきどう》へ上《あが》りましょうね。……ひょっとかして、袖でも触っ
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