、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映《さ》したようでなお綺麗だ。
百合 存じません。
晃 賞《ほ》めるのに怒る奴《やつ》がありますか。
百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様《だんなさま》は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。
晃 鐘を撞《つ》く旦那はおかしい。実は権助《ごんすけ》と名を替えて、早速お飯《まんま》にありつきたい。何とも可恐《おそろし》く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木《しゅもく》が、杖《つえ》になれば可《い》いと思った。ところで居催促《いざいそく》という形《かた》もある。
百合 ほほほ、またお極《きま》り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。
晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。
百合 まあ、あんな事を――これは翌朝《あした》の分を仕掛けておくのでございますよ。
晃 翌朝の分――ああ、お所帯《しょたい》もち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。
百合 何でございますねえ。……お菜《かず》も、あの、お好きな鴫焼《しぎやき》をして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。
晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。
百合 はい。
晃 お互いに朝寝の時――
百合 知りませんよ。(莞爾《にっこり》俯向《うつむ》く。)
晃 煩《うるさ》く薮蚊《やぶっか》が押寄せた。裏縁で燻《いぶ》してやろう。(納戸、背後《うしろ》むきに山を仰ぐ)……雲の峰を焼落《やきおと》した、三国ヶ岳は火のようだ。西は近江《おうみ》、北は加賀、幽《かすか》に美濃《みの》の山々峰々、数万《すまん》の松明《たいまつ》を列《つら》ねたように旱《ひでり》の焔《ほのお》で取巻いた。夜叉《やしゃ》ヶ池へも映るらしい。ちょうどその水の上あたり、宵の明星の色さえ赤い。……なかなか雨らしい影もないな。
百合 ……その竜が棲《す》む、夜叉ヶ池からお池の水が続くと申します。ここの清水も気のせいやら、流《ながれ》が沢山《たんと》痩《や》せました。このごろは村方で大騒ぎをしています。……暑さは強し……貴方《あなた》、お身体《からだ》に触《さわ》りはしますまいかと、――めしあがりものの不自由な片山里
前へ 次へ
全38ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング